プルーンプラム

女子大生の読書ブログ

陰のある女が好きなのです。

空虚さがにじみ出ている女が、好き。堕ちるところまで堕ちたような、女。

近寄り難いのに、近づくのは止したほうが良いのに、近づきたくなる女。

そんな女こそ、高学歴や育ちの良い男を落とす、もとい堕とす。

私は、陰のある女が出てくる恋愛小説を よく読むなと思いました。陰のある女が好きだし、憧れてもいるのです。

陰のある女ってどうやったらなれるのだろうね。

高学歴や育ちの良い男を落とすのに、この二冊の本を参考にしていただけたら幸いです。

 

私の男 / 桜庭一樹

美郎が花を意識するところ。陰が出来る生き方をしているからこそ出来る視線の合わせかた。

 腐野さんはなぜだか、哀れむように目をほそめて僕を見上げていたのだった。盗みをみつかった瞬間のような羞恥がからだを駆け抜けた。

 この人、どうしてそんな目で僕を見るんだ。

 僕が幸福ではないことを、とつぜん、なんのヒントもないのに見抜かれたような気がした。僕はうろたえて、腐野さんから目をそらした。

 花の考え。

結婚するのにもどこか投げやりだった。美郎の、安定した生き方がうらやましかった。あやかりたいという眩しい気持ちと、平凡であたたかな育ち方をした彼の、幸福をあなどる思いの両方があった。

 

 この人となら、と、結婚を決めたときわたしは考えたのだった。

 こういう男の人だったら、絶望的に絡みあうのではなくて、息もできない重苦しさでもなくて、ぜんぜんちがう生き方ができるかもしれない。生まれ直せるかもしれない。不吉さの欠片もない、彼の若さそのものに安堵する気持ちもあった。わたしは、できるならまともな人間に生まれ変わりたかった。ゆっくりと年老いて、すこしずつだめになっていくのではなく、ちゃんと家庭を築き、子供を産んで育てて、未来をはぐくむような、つまりは平凡で前向きな生き方に、変えたかった。そうすることで、手ひどい過去までも、ずるく塗りかえてしまいたかった。そうやって自分を生き延びさせようとしていたのだけれど、いまこうして、こんな明るい場所にじっと座っていると、わたしのわたしそのものである部分—見たことも触ったこともない、魂の部分が、ゆったりと死んで、震えながら急速に腐っていくようにも感じられた。

 

 6月14日(土)に映画が公開されます!絶対に観に行きます。

http://watashi-no-otoko.com/

私の男 (文春文庫)

私の男 (文春文庫)

 

 

ほかならぬ人へ / 白石一文

「前にも言ったけど、うちはお父ちゃんがあんなだったから、私は、ちゃんとお付き合いするなら絶対に浮気をしない人って決めてたの。ああいうお店で働いていたら、男の人の生態ってほんとによく分かるの。明生ちゃんを一目見たとき、『あっ、見っけ』ってぴんと来たの」

 

かけがえのない人へ

 「とにかく私としては一度結婚というキャリアを消化しておきたいの。失敗したところで結婚という経験をすることができた、というのが大きいのよ。自分でもいやになるような、このわけの分からない結婚願望のようなものを私はこの身体のなかから早く追い払いたいの」

「それじゃ、まるで悪魔払いだな

「あんたもたまにはいいこと言うじゃない。そうなのよ。私たち女にとって結婚っていうのは、言ってみれば悪魔の呪いみたいなもんよ」

 

今回は陰のある女の部分を抜粋したけれど、違う箇所のほうがすごく惹かれた。 

ベストな相手が見つかったときは、この人に違いないって明らかな証拠があるらしいんですけれど、どうなんでしょう。

ほかならぬ人へ (祥伝社文庫)

ほかならぬ人へ (祥伝社文庫)

 

 

 

 高学歴や育ちの良い男は、肩書きをみてくる女を徹底的に避けるか、肩書きにたよらない魅力を持つか。

特別な目でみられた時に失望するのではなく、受け止め方をかえるべきですよ。

あとは、互いに心を開き合うほどの深い関係になることが大事ねっ。

 

本を読まない女よりは私に陰があったら良いなと思いました。

 

二冊しか本は読めなかったGW

 今週のお題ゴールデンウィーク2014」

  

女性たちと恋愛の話をしていると、彼女たちは、

「割に合わない恋愛はしたくない」

「追いすがるようなまねはしたくない」

と言う。いずれも「プライドが許さない」という理由だ。

 

 本当に好きな相手なら、プライドなんて捨ててもいいのに、と思う。好きならとことん好きになって最高の時間を味わったほうがいい。もしうまくいかなくなったら、やれることはすべてやり、修羅場を演じてしまっていいのだ。それでもだめなら納得して別れられる。

 

プライドが許さないからとかっこつけて、たいして好きでないふりをし、相手に追いかけさせるようにつねに力関係の主導権を握るほうが恋愛上手なのかもしれないが、そんなのはつまらない。計算ずくで成り立つ恋愛は計算ずくで壊れていく。

 恋愛は理屈ではない。あらゆる情緒と本能を駆使して自分の気持ちをぶつけあう作業の連続だと思う。へたなプライドは豊かな感性や情緒にストップをかけてしまうだけだ。

 

恋愛の最後に追いすがったくらいでつぶれてしまうようなプライドはもつ必要がない。むしろ、そこまで人を好きになれた自分にプライドをもつべきではないだろうか。生きていくということは、しょせん、ぶざまな姿をさらしていくことだ。大事なのはぶざまな姿をさらしてもなお、生き抜くこと。それが最後の砦だと思う。

 

 

 いくつになっても恋愛することに恐れるなかれってことですね。

 ねえ本気で人にぶつかったことある?

筆者は結婚を前提とした恋愛をするな、自分に素直になれる恋愛をしろって。

 

私の感想としては、筆者は結婚したことによって、結婚に対する印象が悪い方向へとシフトチェンジしたのかなって。まあ理想だけじゃ他人と生きていけないよね。序盤は結婚しなくても女は幸せなんだってことを伝えたくて必死な感じがしました。

 

まー恋愛しても盛り上がらないで、結婚することを前提に、適当な人と1年ぐらい付き合ったからって結婚しても楽しくないよね。だから不倫するんでしょ?

「出会った時からこの人と結婚するって何となく感じていた」って発言する人はちょっと理解し難いですね。

 

もうすぐ30歳になるあなたへ―「私」らしくシンプルに

もうすぐ30歳になるあなたへ―「私」らしくシンプルに

 

 

「私にも書いてあることが全部わかりました!とてもおもしろかったです!」

“全部意味がわかる”と“おもしろい”という方向性が、訂正されることもなく是認されている。ポイントは「私がわかる」というところである。

私がわかれば→とてもいい存在。

善悪はそこで判断されている。判断するのは「私」である。

「ではその判断する私は正しいのかどうか」という知性の根本にかかわる疑問は提示されない。そんなことをすると何も判断できなくなるからだ。

「自分が好きだから」 →「いいものである」という判断で、すべてを納得してしまう。また、まわりがその発言を認める。

 

(中略)ただ、こういう発言うするように必死に育ててきたのは、上の世代である。個が個であることがとても大事である、という考えで育て、見事に結実した、ということになる。

 この世代の美点は、わざと対立していくことや、攻撃的になることをきれいに避けていくというところにある。とても「いい子」たちなのだ。

 これ、「いい子」がブラック企業を判定するって見出しになっているのですよ。

社会に属して物事を考えることに私たちの世代は慣れていないのかもしれないですね。

 

 

 

 

 

女のいない男たちを読了して

発売日のお昼休みに神保町の三省堂書店に行きました。

 

村上春樹はまえがきでこう述べています。素敵。

『僕がこれまでの人生で巡り会ってきた多くのひそやかな柳の木と、しなやかな猫たちと、美しい女性たちに感謝したい。そういう温もりと励ましがなければ、僕はまずこの本を書き上げられなかったはずだ。』

 

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「女のいない男たち」には六つの短編がはいっている小説集である。

 

私はこれから気に入った二つの作品について触れたいと思う。

「イエスタデイ」と「女のいない男たち」だ。

この二つの作品がおさめられていたからこそ、去年刊行された長編小説よりも楽しめた気がする。(わりとみなさんがこの二つを比べているので私も比べてみた。)

 

 

「イエスタデイ」がとても良かった。おそらく理由は、浪人生活二年目が一人と現役で大学に入学した二年生が二人で、私と同じ二十歳であったからだ。 そうなると情景をありありと想像しやすいのだ。

 

「でも、若いときにはそういう淋しく厳しい時期を経験するのも、ある程度必要なんじゃないかしら?つまり人が成長する過程として。」

「君はそう思う?」

「樹木がたくましく大きくなるには、厳しい冬をくぐり抜けることが必要みたいに。いつも温かく穏やかな気候だと、年輪だってできないでしょう。」

 僕は自分の中にある年輪を想像してみた。それは三日前のバームクーヘンの残りのようにしか見えなかった。僕がそう言うと彼女は笑った。

 

「私たちもう二十歳なのよ。恥ずかしいとか言ってる年齢でもないでしょう」

「時間の進み方は人によって少しずつずれているのかもしれない」と僕は言った。

「木樽はたぶん、何かを真剣に求めているんだよ」と僕は続けた。「普通の人とは違う彼自身のやり方で、彼自身の時間の中で、とても純粋にまっすぐに。でも自分が何を求めているのか、自分でもまだよく掴めていないんだ。だからいろんなものごとを、まわりに合わせてうまく前に運んでいくことができない。何を探しているのか自分でもよくわからない場合には、探し物はとてもむずかしい作業になるから」

 

大人に二十歳が人生において一番輝ける時期だよと言われても、良さがわからなかったりするから、

年輪をバームクーヘンにみたててみたり、

ドーナツの穴を空白として捉えるか、あるいは存在として捉えるかの形而上学的な問題について考えてしまうのだろうか。

 

村上春樹は“何か”を探している若者の描写がとても優れていると思う。“何か”の答えは物語に書き記してはいないのだけれど。

 

 

 

 

二つ目のお気に入り、

書き下ろし作品の「女のいない男たち」は、ハルキストのために存在している作品と言い切れるのではないかと思うほど、村上春樹が好きな人は、好きな作品だろう。

 

どうしてだろう?

僕はエムとの出会いを十四歳のときに出会った女性だと仮定して話がすすめられるからだろうか。

僕が、温かい西風が吹くたびに勃起していた男の子だったからだろうか。

比喩表現がいちいちお洒落だったりするからだろうか。

 

女のいない男たち

女のいない男たち

 

 

 

今回は村上春樹の作品を大絶賛してみたけれど、最近の私は、村上春樹の新作が発売したから、村上春樹の作品だからといって手にとっている気がする。

しかもがっかりもするくせに、最後は村上春樹の作品を読んだことに満足していたりする。やれやれ

 

 

 

村上春樹は「約束された場所で」を読んでから、これが現代作家のあるべき姿だなと思いました。そのことについては「アンダーグラウンド」をGWのお休みを利用して読んでから書こうと思う。

 

 

 

追記

違う世界だとスターバックスの店員の対応も違うのか?

表参道から青山一丁目まで歩く距離も相当違うのか?

 

 

 

美丘を読了して

 

 

せつない恋の物語です。人を愛することの大切さを、愛の強さというものを学ぶことが出来た。

 

ぼくたちがみな一度きりの命を生きるように、快楽もつねに一度きりだ。ネットやメールがリアルタイムでふりまく膨大な情報に打たれていても、ぼくたちは恋愛においてはいつだって原始人なのである。人を愛するときめきに胸を震わせ、ふたりの秘密をつなげる快感に身体をしびれさせる。それは何度繰り返しても、新鮮さを失わない不思議な力だ。命の秘密は、デジタル情報の海のなかにではなく、明日をも知れないか弱い身体の奥に潜んでいる。 

 

恋に計算はいらない。ぼくたちの心は、決して頭のいうことなどきかない。恋をしたり、人を好きになるのは、心の奥深く、自分でも見ることも理解することもできない場所で起こるひそやかな変化だ。 

 

 ぼくは学んだのだ。誰かを選ぶことは、誰かを傷つけることでもある。その勇気はもち続けなければいけないし、悪や痛みは引き受けなければならない。考えてみれば、ぼくは生まれて初めてきちんと恋愛をしていた。自分を守りながら、誰かをほんのすこしだけ好きになる。そんな逃げ腰ではなく、恋愛の生むあらゆるプラスとマイナスを、自分の身体で受けとめていくこと。

 きみのおかげで、できるはずがないと思っていた恋が、できるようになったのだ。ぼくはそれまで、ずっと臆病だった。人を恋することから逃げてきた。誰も愛さず、誰かに愛されそうになると、あわててその場を立ち去っていたのである。もちろん、ぼくはきみに礼などいっていない。だから、ここでちいさな声でいっておこう。

 ありがとう、美丘。

 

ちいさな声でも、美丘の心には大きく響いたことでしょう。ここで涙腺が緩みました。

 

美丘は美しい丘というよりも、嵐の丘という感じの女の子です。

雨のなかでも、走りたければ走るし、好きな男がいれば、どんな困難を越えてもものにする子。

反省や後悔はしないし。

砂時計のようにこぼれ落ちる時間を手のなかににぎり締め、胸に輝く記憶を焼きつけさせてくる。

 

たとえると嵐のような、そんな美丘は実は治療法も特効薬もない病に冒されている女の子なのだ。だからこそとりわけ輝いているのかなと最初は思った。

 

でもね、人間みんな命に限りがあるんですよ。美丘だけがとりわけ輝いてみえるようではだめだ。

 

美丘の物語の終わりの解説(小手鞠るいさん)がこれまた素敵な締めくくりで。

 本当に素晴らしい作品というのは、私たちを泣かせない。むしろ、目覚めさせる。覚醒させる。孤独にさせる。『美丘』は、号泣、共感、共鳴、「わかる、わかる、この気持ち」

—そこからあともう一歩、先の世界まで、私たちを連れていってくれる。

活字のなかだけにある、豊かな孤独の世界へ。

痺れた。悲しい結末なのに、私も思ったよりは、あまり泣かなくて。泣かなかったのは、太一の語り口調が前をむいていたからだと思う。

私もなにかに目覚めたのかな、そうでありたい。

 

では、私の「わかる、わかる、この気持ち」の部分を。

「なんだか女の子にプレゼントを買うのって、ものすごくたいへんだな」

 

「それはそうだよ。きっと麻理さんだって、太一くんにマフラー買うために、足を棒にして歩きまわったと思うよ」

 

「こういうのは面倒で、あまりぼくの趣味じゃないな。いちいちプレゼントしたり、気をつかったり。そういうのでなくて、もっと自然に、変に力をいれたりせずに女の子とつきあえないものかな」

 

「あのさ、最近の男の子って、みんなそういうんだよね。恋をするときでも、楽ばかりしようとする。自分を変えたくない、新しいことはしたくない。それなのに、Hだけはしたがるんだから、たちが悪いよ」

 

世の中の女の子を代表して、よく言ってくれた!と思いました。

いやしかし作者は男性なのに、本当に女の子の心情描写がうまい。他にも、美丘が言うことは、心にどすんと音をたてて響く。

ね、この本、読んでみたくなったでしょう?

 

人を愛することって素晴らしいんですよ。依存するくらい恋に溺れることって格好悪いことなんかじゃないと思う。

私は、最近の若者の孤独は、人を心から愛せていないからだと思う。

自分が人を愛せないくせに、愛してもらおうとばかりする。

これは恋人に限ったことではなくて、家族だったり、友達だったり、自分の関わりのある人のこと、愛してほしい。

孤独を感じるのは、文学の世界のなかだけであってほしいものです。

 

 

美丘 / 石田衣良

 

美丘 (角川文庫)

美丘 (角川文庫)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

勝手にふるえてろを読了して

勝手にふるえてろ (文春文庫)

 

勝手にふるえてろ / 綿矢りさ

 

綿矢りさ氏の小説の一文、一文は思っていることをストレートに表現していて、

こんなこと私も考えてるって感じて、読み始めると、スピードが落ちないまま読み終わってしまいます。

特に、小説のタイトルが出てくる文章には、とても綿矢さんの気持ちが込められているのが感じられます。

 

 もういい、想っている私に美がある。イチはしょせん、ヒトだもの。しょせん、ほ乳類だもの。私のなかで十二年間育ちつづけた愛こそが美しい。イチなんか、勝手にふるえてろ

ここの部分だけ切り取ったら、迫力は全然感じられないけれど、そこまでもっていく綿矢さんの文章力には、いつも惚れ惚れします。

(綿矢さんといえば、蹴りたい背中を思い出す人が多いでしょうが、蹴りたい背中も、タイトルが出てくる部分には、もっていきかた、圧倒されましたよね。)

 

主人公の江藤良香には(頭の中には)彼氏が二人いる。イチとニだ。

しかし実際のところは、イチは中学生時代3回しか会話したことのない初恋の相手で、ニは会社の同僚で、良香にアタックをして面倒がられている相手。

良香は二人を頭の中で自分の彼氏にし、自分がモテている初めての状況を楽しんでいるのだ。良香のひねくれている性格がとてもキュートでもある。

 

 イチは、もし私が告白すれば、彼は押しに弱そうだから付き合えるかもしれない。でも彼が私を本当に好きになることはないだろう。私はイチからもらった本当に人を好きになる感動を、彼に与えることはできない。本当にイチが大好きだと痛烈に感じた日、いつもの学校の帰り道がちがって見えた。五感の膜が一枚はがれたように、いつも見ている電線ごしの青空が急にみずみずしく見え、家の近くのケーキ屋さんから流れてくるバターの溶けた甘いスポンジ生地の香りが鼻をくすぐった。一日分の教科書が入ったかばんはいつもより軽く、道路を駆けぬけてゆく車のスピードさえ心地良い。私はあの気持ちを、イチに味わわせることはできない。

 

片思いしている女の人の表現がうまいな、わかるなって。この文の続きに、自分に恋しているニについて記載されておられるのですが、思い方が全然違うところは思わず苦笑い。好きになってほしいひとと、好きになられても困るひとの心の中での扱い方って、本当こんな感じだなって。

文章化されると改めて実感出来ますよね。この本を読んで、私はちゃんと好きな人に好きな気持ち、伝えられてるかなって思い返すと、なんだか悲しい気持ちになりました。

 

 

 

ここから先は、少し深く内容に入り込みます。

 どうして私は、失わなければそのものの大切さが分からないんだろう。完全に手に入ったままのものなんてないのに。どんなに自分のものにしたつもりでも、極端に言ってしまえば死ぬときになれば私たちはなに一つ持たずに一人で死ぬ。

 まして一個の人間なんて、完全に手に入ることなど絶対にない。それなのに私はなんの根拠もなくニの愛情に安心して、彼はいつまでもしつこく追いかけてくれるだろうと心の中で頼りきっていた。

 

 妥協とか同情とか、そんなあきらめの漂う感情とは違う。ふりむくのは、挑戦だ。自分の愛ではなく他人の愛を信じるのは、自分への裏切りではなく、挑戦だ。

と、考えを改めるところもキュンときました。 

 

処女は私にとって、新品だった傘についたまま、手垢がついてぼろぼろに破れかけてきたのにまだついている持ち手のビニールの覆いみたいなもの

 って例えには笑ってしまいました。女子校出身によくいる感じだなって。

女子校、女子大出身の私にはとても共感しやすかったです。

 

 

 こんなに感想をつらつらと書き記してきたけれども、

勝手にふるえてろの後に収録されている「仲良くしようか」のほうが、

ページをめくる早さがどんどん加速していきましたね。

新鮮な驚きが身体じゅうを 駆け抜け ていったんですよね。

まるで自分が思っていることがそのまま印字されているみたいに。抜粋する部分なんてないぐらいにどの文もすっとはいってきました。

 

 

 

 

娼年を読了して

娼年 (集英社文庫)

 

娼年 / 石田衣良

 

心を動かされた部分を。

「きれいな顔や上手なセックスだけが、女を惹きつけるとでも思ってるの?あなたのいつも難しそうな顔をして悩んでいるところも、ほかの人から見ると魅力的だったりする。自分で意識してる魅力なんて底の浅いものよ。」

 

「わたし、約束の時間のまえにきて、今日はどうしようかなって考えるのが好きなんだ。だって人を待つ時間てすごくじれったいでしょ。そのじれったいのが好き。だから、素敵だなと思う男の子だと、すぐに寝てしまうのが惜しくなる」

 彼女は目をあげて、ぼくをまっすぐに見つめた。目の縁だけでなく、白目も熱をもったように染まっていた。

「若い男の子にはこんな気持ちわからないかな」

 

 女性ひとりのなかに隠されている原型的な欲望を見つけ、それを心の陰から実際の世界に引きだし実現する。それが娼夫の仕事だとぼくは考えるようになった。

 それを最初に教えてくれた女性の話をしよう。

 

 

 この本の主人公は、恋愛にも大学生活にも退屈し、うつろな毎日を過ごしていたリョウ、二十歳。女性向け会員制クラブのオーナー御堂静香から誘われ「娼夫」の仕事を始めます。

 

 ここで姫野カオルコ氏の解説の言葉をかりると、

主人公の森中領が、女性に肉体を売る仕事をする話と一言ですじは終わりだけれども、何がどうおこったかより、何が「どう」綴られているかを読みたい人のための本とまさにそのように紹介出来る本です。

「ラブシーン」と古式ゆかしく呼ぶのがぴったりな、愛らしい硬質感のある本です。

 

「・・・それまで死はとても遠いものだとわたしは思っていた。昼と夜のようにはっきりと別な世界の出来事だと。でも身近な人がむこうにいくと、死の世界そのものも身近になる。昼と夜のあいだには夜明けと夕暮れがある。この世界には百パーセントの光も、百パーセントの暗闇も存在しない。生と死はパイ生地のように無数に折れ重なっているもの。宗教でも哲学でもなく、わたしの感覚にすぎないけれど・・・・」

この生と死についてかかれていた部分と、セミの鳴き声に包まれた確かな時間についての会話の部分は文学少女の私をあっと言わせる書き方でした。余韻に浸れる素敵な文章です。

 

以下はやさしいリョウの名言です。

誰もが自分のスタイルや物語をもっている。それは表面的な飾りにすぎないという人もいるだろう。欲望の真実はどこか深部にある。

 

ぼくたちは自分で設計したわけでもない肉体の、ごくわずかな部分に振りまわされて一生を過ごす。過剰な欲望をもつ人は生涯を檻のなかで送ることもあるだろう。

 

でもぼくは真実も深部も見たくはない。表面を飾ろうとする気持ちだけで、ぼくにはどの女性も魅力的に見えた。悪趣味でちぐはぐな衣装だと人をあざけることは、ほんとうは誰にもできないはずなのだ。この世界では誰もが、手近なボロ隠しをまとっている。黄金の心をもつ正しい人間だけ裸で外を歩けばいい。ばくは裸が嫌だからボロを着る。

 

 

まあ、私と同じ二十歳の男の子がこんなに大人びていて、実際の私の目の前にあらわれたらとても驚きますけどね。

私も読み進めていくうちにリョウと同様に、女性の欲望の不思議に魅せられていきました。

娼年て英語表記だと、ただただ単純に、call boy になるけれど、なんかそれだとこの本のタイトルにはそぐわない気がしました。日本語だとしっくりくるのは、最近英語に触れていないからかな・・・・

 

 

 

イニシエーション・ラブを読了して

イニシエーション・ラブ (文春文庫)

 

イニシエーション・ラブ / 乾くるみ

 を読んで個人的に感じたことを、つらつらと書き記していきます。

 

 

sideAのマユの発言から、

 

「・・・・・・ だって、女の人を器用に扱える人って—それはもちろん、そういう人と付き合うほうが、女の側からすればすごい楽だとは思うんですけど、でも考えてみれば、その人がそうなるまでに、じゃあ今までにいったい何人、女の人を泣かせてきたかって考えると、そんな人は信用できないって思って。だったらもっと真面目で、でもそのぶん不器用だったりするけど、絶対に嘘なんてつけないような人がいいなって、それはずっと前から思ってて」

 

 

 

ここから、マユが何度か恋愛を経験していることに気づくべきだったのではないかと思いました。女の人は、憧れや尊敬出来る部分から恋を始めることがあると思われるからです。このマユの発言は、一通り経験をして、恋愛に疲れた女の人が口を揃えて言い始める台詞ですよ。

 

ここで恋愛経験の少ないたっくんが自分にもチャンスがあると思い込んでしまうんですよね。悪女のわなにひっかかっていますね。

でもそういう人のほうが短時間で落ちるし、順序よく落ちるんですよね。恋愛をゲームに例えるならば、良い獲物ですね。

 

自分が恋をしている相手を見極めるのって、とても大変なことですよね。

ある程度傷つくことを覚悟して、行動しないと、その人との未来は見えないとは私は思いますけれど。草食って言葉で逃げてるようじゃ未来は見えないんですよ。

 

 

 

sideBのたっくんと石丸さんの会話から

 

「彼からはー天童さんからは、お前にとって俺はイニシエーションだったんだって言われた。・・・・イニシエーションって、言葉の意味わかる?」 

「イニシエーション・・・通過儀礼ってこと?」

 

「そう。子供から大人になるための儀式。私たちの恋愛なんてそんなもんだよって、彼は別れ際に私にそう言ったの。初めて恋愛を経験したときには誰でも、この愛は絶対だって思い込む。絶対って言葉を使っちゃう。でも人間にはーこの世の中には、絶対なんて言葉はないんだよって、いつかわかるときがくる。それがわかるようになって初めて大人になるっていうのかな。それをわからせてくれる恋愛のことを、彼はイニシエーションって言葉で表現してたの。それを私ふうにアレンジするとー文法的には間違ってるかもしれないけど、カッコ良く言えばーイニシエーション・ラブって感じかな」

 

恋人が居るたっくんを落とそうとする、悪女として書かれている石川さんは、やはり、あざといなと思いました。

目の前にいる男の人を落とすのに、自分の元恋人の発言を受け売りにしているところとか。

石川さん側が好きだ、好きだとグイグイくるけれど、あるところでたっくんに嫉妬心を抱かせるところとか、最高に悪女じゃないですか。参考にしたいぐらいだなと思いました。 

 

通過儀礼については、わかるなーと思いました。きっと通過儀礼もなく恋愛なんてしたらつまらない人生になるよ。

 

 

 

ここからは、少しネタバレを含みます。

 

読み終わった感想として、実はマユが一番悪いことをしていた、女って怖い!って私に本を紹介してくれた人は言っていたんですけれど、たっくんも同時期に浮気していたのだから、女が怖いとは言えないんじゃないかなって。

私はなんかマユがやっぱりかわいそうだなって感じてしまうんですよね。

 

 

辰也が一ヶ月ぶりに電話をしたのに、すぐに「たっくん」と発したマユだって、

結果的にはその時期の「たっくん」はそっちの「タックン」だったわけだけれど、

タロットカードに裏があるように、裏をかえせば、(順位付けをするのはアレだけれど)マユは、たっくんが一番好きだったことにつながるから、可愛いものじゃないんですかね?

 

私の解釈としては、マユは辰也を愛しているが故に「タックン」を辰也の穴埋めとして利用していたのだから、

浮気がバレないためだけに「タックン」とあだ名をつけた訳ではないのではと思います。

 

 

この小説のよかったところは、時代背景と密接にマッチしているところですね。80年代は私の生まれていない時代だから詳しくは分からないけれど、小説の章立てに使われている曲がsideBでは全曲悲しい恋の曲ってところに驚きました。

 

うーん距離には勝てないんですかね。難しい。

あ、歪んだ恋愛小説ばかり読むけれど、それはフィクションの中だけにおさえてあるのでご心配なく。

私の友人は遠距離恋愛でも成功してるから、繭子と辰也の二人の問題だったのかな。