二冊しか本は読めなかったGW
女性たちと恋愛の話をしていると、彼女たちは、
「割に合わない恋愛はしたくない」
「追いすがるようなまねはしたくない」
と言う。いずれも「プライドが許さない」という理由だ。
本当に好きな相手なら、プライドなんて捨ててもいいのに、と思う。好きならとことん好きになって最高の時間を味わったほうがいい。もしうまくいかなくなったら、やれることはすべてやり、修羅場を演じてしまっていいのだ。それでもだめなら納得して別れられる。
プライドが許さないからとかっこつけて、たいして好きでないふりをし、相手に追いかけさせるようにつねに力関係の主導権を握るほうが恋愛上手なのかもしれないが、そんなのはつまらない。計算ずくで成り立つ恋愛は計算ずくで壊れていく。
恋愛は理屈ではない。あらゆる情緒と本能を駆使して自分の気持ちをぶつけあう作業の連続だと思う。へたなプライドは豊かな感性や情緒にストップをかけてしまうだけだ。
恋愛の最後に追いすがったくらいでつぶれてしまうようなプライドはもつ必要がない。むしろ、そこまで人を好きになれた自分にプライドをもつべきではないだろうか。生きていくということは、しょせん、ぶざまな姿をさらしていくことだ。大事なのはぶざまな姿をさらしてもなお、生き抜くこと。それが最後の砦だと思う。
いくつになっても恋愛することに恐れるなかれってことですね。
ねえ本気で人にぶつかったことある?
筆者は結婚を前提とした恋愛をするな、自分に素直になれる恋愛をしろって。
私の感想としては、筆者は結婚したことによって、結婚に対する印象が悪い方向へとシフトチェンジしたのかなって。まあ理想だけじゃ他人と生きていけないよね。序盤は結婚しなくても女は幸せなんだってことを伝えたくて必死な感じがしました。
まー恋愛しても盛り上がらないで、結婚することを前提に、適当な人と1年ぐらい付き合ったからって結婚しても楽しくないよね。だから不倫するんでしょ?
「出会った時からこの人と結婚するって何となく感じていた」って発言する人はちょっと理解し難いですね。
「私にも書いてあることが全部わかりました!とてもおもしろかったです!」
“全部意味がわかる”と“おもしろい”という方向性が、訂正されることもなく是認されている。ポイントは「私がわかる」というところである。
私がわかれば→とてもいい存在。
善悪はそこで判断されている。判断するのは「私」である。
「ではその判断する私は正しいのかどうか」という知性の根本にかかわる疑問は提示されない。そんなことをすると何も判断できなくなるからだ。
「自分が好きだから」 →「いいものである」という判断で、すべてを納得してしまう。また、まわりがその発言を認める。
(中略)ただ、こういう発言うするように必死に育ててきたのは、上の世代である。個が個であることがとても大事である、という考えで育て、見事に結実した、ということになる。
この世代の美点は、わざと対立していくことや、攻撃的になることをきれいに避けていくというところにある。とても「いい子」たちなのだ。
これ、「いい子」がブラック企業を判定するって見出しになっているのですよ。
社会に属して物事を考えることに私たちの世代は慣れていないのかもしれないですね。