1Q84を読了して
2014年が終わるまでに読むぞ!と決意して、12月から読み始めた1Q84。やっと読み終わって、自分の中に吸収できるまでになった。(2014年内に読み終わるという目標は達成できませんでした)
それで、自分が気になった部分を残しておこうと思う。(謎解きやら書評は他の人のブログなんかを読んでください。)
BOOK1前編(文庫本では数字の1)から
天吾が青豆のことを思い出すシーン
彼女が「証人会」信者であることはクラスの全員が知っていた。(中略)また彼女はお昼の給食を食べる前に、必ず特別なお祈りを唱えなくてはならなかった。それも大きな声で、誰にも聞こえるようにはっきりと唱える必要があった。当然のことながら、まわりの子供たちはそのお祈りを気味悪がった。彼女だってきっとそんなことは人前でやりたくなかったはずだ。しかし食事の前にはお祈りは唱えるものとたたき込まれていたし、ほかの信者が見ていないからといって、それを怠ることはできなかった。「お方さま」は高いところから、すべてを細かくごらんになっていたからだ。(中略)
天吾は心の中では彼女に同情していた。休みの日も親に連れられて家から家へと玄関のベルを押してまわらなくてはならないという、特異な共通点もあった。布教活動と集金業務の違いこそあれ、そんな役割を押しつけられることがどれほど深く子供の心を傷つけるものか、天吾にはよくわかっていた。日曜日には子供は、子供たち同士で心ゆくまで遊ぶべきなのだ。人々を脅して集金をしたり、恐ろしい世界の終わりを宣伝してまわったりするべきではないのだ。そんなことはーもしそうする必要があるならということだがー大人たちがやればいい。
1Q84はオウム真理教の事件を意識してつくられたものというのはよく知られていることだと思うけれど、ところどころに宗教の恐ろしさ、家族との関係についての描写があった。
大塚環やあゆみの恋愛依存の理由は父親や家族からの愛情が無かったからだし、天吾が十歳年上の練れた人妻にたっぷりかわいがってもらったのも母親の愛情が無かったからだろう。
そして、オウム真理教の事件後に生まれた子供が成人式を迎えた今、知らないまま宗教の恐ろしさにのめり込んでしまう若者が生まれないように。3月で20年を迎えるオウム真理教による地下鉄サリン事件のことを私たちは忘れてはいけない。
物語の中には哲学的な内容も 含まれていた。
BOOK2前編(文庫では数字の3)から
タマルは軽く咳払いをした。「ところで菜食主義の猫とネズミが出会った話を知っているか?」
「知らない」
「聞きたいか?」
「とても」
「一匹のネズミが屋根裏で、大きな雄猫に出くわした。ネズミは逃げ場のない片隅に追いつめられた。ネズミは震えながら言った、『猫さんお願いです。私を食べないで下さい。家族のところに帰らなくちゃならないんです。子供たちがお腹をすかせて待っています。どうか見逃して下さい。』猫は言った、『心配しなくていいよ。おまえを食べたりしない。実を言うと、大きな声じゃ言えないが、俺は菜食主義なんだ。肉はいっさい食べない。だから俺に出会ったのは、幸運だったよ。』ネズミは言った、『ああ、なんて素晴らしい日なんだろう。なんて僕は幸運なネズミなんだろう。菜食主義の猫さんに出会うなんて』。しかし次の瞬間、猫はネズミに襲いかかり、爪でしっかりと身体を押さえつけ、鋭い歯をその喉に食い込ませた。ネズミは苦しみながら最後の息で猫に尋ねた、『だって、あなたは菜食主義で肉はいっさい食べないって言ったじゃありませんか。あれは嘘だったんですか。』猫は舌なめずりをしながら言った、『ああ、俺は肉は食べないよ。そいつは嘘じゃない。だからお前をくわえて連れて帰って、レタスと交換するんだ』」
青豆は少し考えた。「その話のポイントは何なの?」
「ポイントはとくにない。さっきの幸運の話題が出たから、ふとこの話を思い出したんだ。ただそれだけだよ。もちろんポイントを見つけるのはあんたの自由だけどな」
「心温まる話」
どんな意味で書いたのかは分からないが、心温まる話ではないのだけは分かる。
1Q84という世界から抜け出せたのは天吾と青豆の純粋な「愛」のおかげという物語の終わり方は、今ある現実の世界には「愛」でしか救えないんだなということを感じさせられた。
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