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女子大生の読書ブログ

『風味絶佳』を読了して

『風味絶佳』は二〇〇八年に文藝春秋から出版された、山田詠美の作家二十周年を記念した恋愛小説だ。職人の域に踏み込もうとする人々から滲む風味が六粒味わえる。

風味絶佳 (文春文庫)

小説の六粒、そして、『風味絶佳』という短編集のタイトルは、あの森永ミルクキャラメルの黄色い箱から取られたものであった。

 

 最近、書籍情報誌『ダ・ヴィンチ』とのコラボで、ミルクキャラメルの中箱の裏面に、期間限定で直木賞作家の朝井リョウさんと角田光代さんのオリジナルショートストーリーが掲載されたのは記憶に新しいと思う。

www.womaninsight.jp

そんなミルクキャラメルについて、山田詠美は登場人物に「恋人」と言わせる。

 ユニフォームのポケットから、森永ミルクキャラメルの黄色い箱を取り出した場合。

 それに目をとめたたいていの人は、懐かし気な表情を浮かべる。今時、珍しいねえ、と言う。昔、遠足に持って行ったよ、あるいは、子供の頃を思い出すねえ、などと続ける。そのたびに志郎は、このキャラメルが人々の遠い過去となっていることを知る。ところが、今でも祖母の不二子は、これを私の恋人と呼んでいる。いつもバッグの中に入れて持ち歩き、事あるごとに口に入れている。糖尿病になるから控えた方が良いと注意しようものなら、彼を馬鹿にしたように見て言い返す。脳みその栄養分は糖でしか取れないんだよ、甘いもので生きている可愛らしい代物が脳みそなんだよ、そんなことも知らずに二十一年も生きて来たなんて、ああ、私の孫と来たら、なんというイディオットな……云々……と続くのである。イディオットって何? などとはもう尋ねない。ぬけ作のことに決まってるじゃないか! と、以前、頭を小突かれた。それも、七十歳の老人とは思われない程の強い力で。私の脳みその皺は、このキャラメルのおかげで増えた、と彼女は言う。それでは、その顔の皺は何のおかげで増えたのか。 そう問いたいところだが、どのような仕打ちが待ち受けるのか解らないので口をつぐんでおく。キャラメルが恋人だなんて。それでは恋人とはなんなんですか、と尋ねたことがあった。そして、また、ああ、私の孫と来たらなんてイディオットなのだろう、と体を震わせるのであった。とりあえず、これでも舐めて頭を働かせなさい。そう言われて、口に放り込まれ続けたキャラメルは、いつのまにか、彼にとっても必需品になっている。ただし、恋人と思える程には、愛せない。人々の遠い過去になった味は、祖母にとっては現役だ。

山田詠美の描く文章は、まさに風味絶佳そのものだ。

 

上野千鶴子は『上野千鶴子が文学を社会学する (朝日文庫)』で『ベッドタイムアイズ』を描いた山田詠美を絶賛していた。

…(吉本ばななとくらべると、)山田の文体は驚くほど端正な日本語である。私は山田を最後の日本語巧者と呼びたいぐらいである。その文体の端正さにともなって、山田の描く内容もまた、見かけのスキャンダラスさにもかかわらず、おそろしく古典的な性愛の世界である。(略)山田の世界は純愛派のオヤジたちにもわかりやすい。山田は「性」が「愛」の代名詞になりえた「最後の二十世紀人」と言ってよいかもしれない。

このように、山田詠美の魅力というのは、文体の端正さに加え、あの新鮮かつ独特な肉体感覚表現にある。しかし、その女性作家の「性」描写の艶かしさを苦手とする人で、山田詠美の作品を読みたいと思ったら、この『風味絶佳』を手にするとよいだろう。

 

彼女の肉体を描く言葉には「性」を抜きにしても摩訶不思議な描写の欲望を感じる。

 

 

『風味絶佳』の中の一粒、「夕餉」の冒頭の部分を紹介する。元主婦が清掃作業員の彼に食べさせる料理に心血を注ぐ話だ。

 私は、男に食べさせる。それしか出来ない。私の作るおいしい料理は、彼の血や肉になり、私に戻って来る。くり返していると、どんどん腕は上がる。彼の舌は、私の味に馴染んで、もう、満腹になればそれで良い、なんて言わせない。四時二十五分の退庁時刻とほぼ同時に電話が入り、こう尋ねられる。今晩のめし、何? それに合わせて彼は、おなかの具合を調整する。時には、運転手や他の作業員の人たちにつき合って酒を飲まなくてはならない。その場合、献立を変更して夕食を夜食に変える。でも、手を抜いたりなんかしない。彼の体は、私が作るんだ。私の料理から立ちのぼる湯気だけが彼を温める。それが私のデューティ。譲れない。もう、こうなったら意地だ。無理すんなよ、と彼は言う。私は、もう、聞く耳なんか持ちゃしない。料理欲は性欲以上に、私の愛の証になっている。いつだって、極上の御馳走を食べさせてやる。他人の生活の滓(かす)で苦労している彼の滓は、最高級のものから出来ているのだ。そう自らに言い聞かせて、今日も、私は台所(キッチン)に立つ。さあ、気合を入れるために、まず、ヱビスビールをひと缶飲もう。喉から食道、そして胃袋に向かってエナジーが流れて行くのが解る。ひと缶が空になる頃には、体じゅうにやる気が染み渡る。よし! と呟き、缶を水ですすいでつぶす。専用のガーベッジ缶に、それを投げ入れる。こうしなきゃ駄目なんだよ。

まるで料理小説と勘違いしてしまうことだろう。だが、料理を味わうこともできない作家に言葉を味わうこと、人間を味わうことができるであろうか。

 

山田詠美は人間の醸し出す風味を咀嚼し、それを彼女だけの言葉で小説世界に埋め込んだのだ。 

 

 

風味絶佳 (文春文庫)

風味絶佳 (文春文庫)