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女子大生の読書ブログ

『スイートリトルライズ』を読了して

スイートリトルライズ』は2004年に単行本として幻冬社から出版された江國香織による恋愛小説である。テディベア作家の瑠璃子と二歳年下の外資系の会社に勤務する聡の夫婦二人は、日常に不満はないが、「禁じられた遊び」のミシェールとポーレットのように、寄り添って暮らしていきたい為に嘘をついていく。一緒に眠って、一緒に起きる。どこかに出かけてもまた一緒に帰る家。そこには、甘く小さな嘘があるのだ。

 

 家は夫婦の関係、夫婦を象徴しているのではないかと考えた。事実、物語の最後はこう締めくくられている。「部屋のなかはあかるく、テーブルの上にはつくりかけのベアの胴体が、まるで日なたぼっこでもしているみたいにころがっている。聡と瑠璃子の、愛の家のなかで。」

 

「聡は窓なの」と瑠璃子は言う。

 脱衣所は狭く、ひんやりしている。洗濯機をまわしながら、聡のことを考えた。いまごろ会社で働いているのであろう聡のことを。なつかしい気持ちがした。会いたい、といってもよかった。瑠璃子にとって、聡の存在の大きさー単純に言語の意味および構造として、それは小ささと言い換えてもおなじことだと瑠璃子は思い、苦笑するのだったがーはかわらない。出会ってからの数年も、結婚してからの数年も、聡はずっとおなじだった。まじめで、瑠璃子の知らないことをよく知っていて、瑠璃子を外界から護ってくれている。窓みたいに。一方で聡はひどく子供じみていて、日々瑠璃子を必要としている。窓が部屋を必要とするみたいに。 

 物語のなかでは、窓に映る人物の姿が印象に残る。聡は「電車の扉の窓の闇に。色白で童顔の、自分の顔」が映っているのを見る。一方、聡の浮気相手のしほの表情は、ガラス窓のなかで聡に興味をひかれて動く。そして、地下鉄の窓に映った二人の姿は、指をからませて手をつないでいるのに、すくいがたくよそよそしく、おそろしく寂しかったのだ。まもなく、聡は窓のないラブホテルで、瑠璃子は風通しよい部屋でそれぞれ浮気をする。

 

 また、聡が瑠璃子を必要とするみたいに、窓が部屋を必要とするみたいに、瑠璃子は自分のことを部屋だと比喩する。「聡は毎朝鏡の前で歯ぐきのチェックをして会社にでかけ、仕事をして、毎日ここに帰ってくる。(略)実際、瑠璃子は部屋の造作には心をくだいた。イギリス製の布であつらえたカーテンと、ながいことかかってあつめたアンティークのベアたち。このうちは自分そのものだ」と瑠璃子は感じる。

 

 二人は「昼間は外にでて、仕事をしたり、いろんなことを考えて、浮気したりしていても、夜になると家に帰る」のだ。妙だなぁと思っていても。瑠璃子は「私、窓って大好き」と言い、聡は瑠璃子とは関係のないことだと言いつつも「部屋はほんとうに落ち着く」と思う。

「聡」

きいて、と言って目の前にすわった瑠璃子をみて、聡はいやな予感がした。妻がこの表情で正面にすわるときは要注意なのだ。わけのわからないことを言いだす。私を貪欲だと思うか、とか、このうちに恋が必要なのかどうかもわからない、とか。

「大切なのは、日々を一緒に生きるっていうことだと思うの」

聡は、うん、と返事をする。

「一緒に眠って一緒に起きて、どこかででかけてもまたおなじ場所に帰るっていうこと」

「うん」

「大切なのはそのことだと思うの」

「うん」

「覚えててね」

聡は言葉につまった。何を憶えておけばいいのかわからなかったからだ。それでも、仕方がないので「うん」と言った。

「よかった」

瑠璃子はにっこりとして立ち上がり、コーヒーのおかわりをついでくれた。

 このうちには恋は必要なかったが、秘密を隠すために「嘘」が必要になった。瑠璃子は浮気相手の春夫に言ったのだった。

「(略)わたしはあなたに絶対に嘘はつけない。知っているでしょう? あなたも私に嘘をついてくれないもの」

そしてね、と、続けた。春夫は部屋のなかに向き、瑠璃子をじっと見つめている。これから自分が言おうとしていることの、あまりの淋しさに、瑠璃子はたじろいだ。まるで、言葉が胸のなかで凍りついたみたいだった。

「そして、何?」

瑠璃子は春夫をにらみつける。春夫はいつも容赦がない。

「そしてね」

瑠璃子はようやく口をひらく。ぞっとするほど淋しい声になった。

「なぜ嘘をつけないか知ってる? 人は守りたいものに嘘をつくの。あるいは守ろうとするものに」

瑠璃子は、自分の言葉が自分の心臓を、うすっぺらな紙のように簡単にひき裂いたのを感じた。

夫婦の関係を維持するためには、恋は必要ないが、嘘は必要になるのだ。嘘をつくことなく、愛しているという瑠璃子に春夫はぽつりと言う。「それはとても、スイートじゃないか」嘘のない関係はとてもスイートなのだ。

 

スイートリトルライズ (幻冬舎文庫)

スイートリトルライズ (幻冬舎文庫)