勝手にふるえてろを読了して
綿矢りさ氏の小説の一文、一文は思っていることをストレートに表現していて、
こんなこと私も考えてるって感じて、読み始めると、スピードが落ちないまま読み終わってしまいます。
特に、小説のタイトルが出てくる文章には、とても綿矢さんの気持ちが込められているのが感じられます。
もういい、想っている私に美がある。イチはしょせん、ヒトだもの。しょせん、ほ乳類だもの。私のなかで十二年間育ちつづけた愛こそが美しい。イチなんか、勝手にふるえてろ
ここの部分だけ切り取ったら、迫力は全然感じられないけれど、そこまでもっていく綿矢さんの文章力には、いつも惚れ惚れします。
(綿矢さんといえば、蹴りたい背中を思い出す人が多いでしょうが、蹴りたい背中も、タイトルが出てくる部分には、もっていきかた、圧倒されましたよね。)
主人公の江藤良香には(頭の中には)彼氏が二人いる。イチとニだ。
しかし実際のところは、イチは中学生時代3回しか会話したことのない初恋の相手で、ニは会社の同僚で、良香にアタックをして面倒がられている相手。
良香は二人を頭の中で自分の彼氏にし、自分がモテている初めての状況を楽しんでいるのだ。良香のひねくれている性格がとてもキュートでもある。
イチは、もし私が告白すれば、彼は押しに弱そうだから付き合えるかもしれない。でも彼が私を本当に好きになることはないだろう。私はイチからもらった本当に人を好きになる感動を、彼に与えることはできない。本当にイチが大好きだと痛烈に感じた日、いつもの学校の帰り道がちがって見えた。五感の膜が一枚はがれたように、いつも見ている電線ごしの青空が急にみずみずしく見え、家の近くのケーキ屋さんから流れてくるバターの溶けた甘いスポンジ生地の香りが鼻をくすぐった。一日分の教科書が入ったかばんはいつもより軽く、道路を駆けぬけてゆく車のスピードさえ心地良い。私はあの気持ちを、イチに味わわせることはできない。
片思いしている女の人の表現がうまいな、わかるなって。この文の続きに、自分に恋しているニについて記載されておられるのですが、思い方が全然違うところは思わず苦笑い。好きになってほしいひとと、好きになられても困るひとの心の中での扱い方って、本当こんな感じだなって。
文章化されると改めて実感出来ますよね。この本を読んで、私はちゃんと好きな人に好きな気持ち、伝えられてるかなって思い返すと、なんだか悲しい気持ちになりました。
ここから先は、少し深く内容に入り込みます。
どうして私は、失わなければそのものの大切さが分からないんだろう。完全に手に入ったままのものなんてないのに。どんなに自分のものにしたつもりでも、極端に言ってしまえば死ぬときになれば私たちはなに一つ持たずに一人で死ぬ。
まして一個の人間なんて、完全に手に入ることなど絶対にない。それなのに私はなんの根拠もなくニの愛情に安心して、彼はいつまでもしつこく追いかけてくれるだろうと心の中で頼りきっていた。
妥協とか同情とか、そんなあきらめの漂う感情とは違う。ふりむくのは、挑戦だ。自分の愛ではなく他人の愛を信じるのは、自分への裏切りではなく、挑戦だ。
と、考えを改めるところもキュンときました。
処女は私にとって、新品だった傘についたまま、手垢がついてぼろぼろに破れかけてきたのにまだついている持ち手のビニールの覆いみたいなもの
って例えには笑ってしまいました。女子校出身によくいる感じだなって。
女子校、女子大出身の私にはとても共感しやすかったです。
こんなに感想をつらつらと書き記してきたけれども、
勝手にふるえてろの後に収録されている「仲良くしようか」のほうが、
ページをめくる早さがどんどん加速していきましたね。
新鮮な驚きが身体じゅうを 駆け抜け ていったんですよね。
まるで自分が思っていることがそのまま印字されているみたいに。抜粋する部分なんてないぐらいにどの文もすっとはいってきました。