『夜行観覧車』を読了して
湊かなえ『夜行観覧車 (双葉文庫)』双葉文庫、二〇十三年
ゼミで「登場人物の名前と小説の内容との関係性」についての参考資料として紹介されたのが『夜行観覧車』であった。
この『夜行観覧車』は、坂の上にある高級住宅地「ひばりヶ丘」に住む遠藤家、高橋家、小島家の三つの家庭を中心に描かれている。
無理をしてでも小さな一軒家をひばりヶ丘に建て、幸せを手に入れたかのように見えるが、中学受験に失敗し癇癪をおこす娘・彩花の家庭内暴力に悩まされる遠藤家。
遠藤家の向かいには、ひばりヶ丘の中で一番の豪邸に高橋家が住んでいる。
病院を経営する医師の夫、美しい妻、遠藤家の娘の彩花が落ちた私立S女子学院に通う長女と、名門私立K中学校に通いスポーツも万能の次男、さらに長男は、関西で一人暮らしをしながら医学部に通っている。
そして、忘れてならないのが遠藤家の隣に住む小島家の妻だ。自治会夫人部の会長を務めている。
そんな三つの家庭が暮らしている、誰もが憧れるひばりヶ丘で殺人事件は起きた。幸せを絵に描いたようなエリート一家、高橋家で。
テレビでは次のように放送された。
四日午前零時二十分頃、地元の消防署に「夫がケガをした」と通報が入った。救急隊員が駆けつけると、高橋弘幸さんが後頭部から血を流して倒れていた。事件性があると見た救急隊員は、地元警察署に通報。高橋さんは病院に運ばれて間もなく死亡が確認された。
警察の取り調べに、妻の淳子容疑者は「部屋にあった置物で、自分が夫を殴った」と供述。事件当時、同居をしている長女と次男は留守で、警察では高橋さんと妻とのあいだに何らかのトラブルがあったものとみて、調べを進めている。
事件当日、長女は友達の家に外泊、次男は犯行時間にはコンビニにいたという証拠があるが、その次男は事件発生を境に失踪。警察も残された子どもたちも、そして遠藤家、小島家の妻も真犯人は次男ではないかと考え始める。
三つの家庭の視点から、事件の動機と真相が明らかになっていくのだが、ここで注目したいのは『夜行観覧車』というタイトルにこめられた秘密だ。
長女は行方不明だった次男と、ひばりヶ丘をおりた先にある海岸付近の道で偶然再会するのだが、そこでの二人の会話で初めて「観覧車」という単語がでてくる。
「海から見る夜景もきれいだね」
ちびちびとスープをすすりながら、バスセンターの向こうの、山側を見上げた。ゆるやかな傾斜にそって、光の絨毯が延びている。
「……うん」
ようやく慎司が声を出した。
「山と海から、慎司はどっちが好き?」
「両方、いっぺんに見たい」
「ヘリコプターにでも乗るの? 贅沢ぅ」
「……観覧車」
「えっ?」
「ここの空き地に観覧車ができるんだ。ネットの市の掲示板に載ってたけど、知らない?」
「そんなとこ見ないもん。町おこしのために、遊園地でもできるの?」
「いや、観覧車だけだって」
「それじゃあ、観光客なんて来ないんじゃない?」
「でも、日本一大きいんだって」
「それはすごいかも。夜景も、海と山ばっちり両方見られそうだよね」
夜空にそびえる観覧車を想像するだけでドキドキしてきた。この地域の人たちは、山は上流、海は下流などとこだわっているが、観覧車に乗って両方を一度に見下ろすことができれば、どんなふうに思うだろうか。だが……、自分や慎司は観覧車が完成する頃もここにいるのだろうか。
山の上流とは、高級住宅地のひばりヶ丘を指している。下流は一般的な人々が住む場所だ。観覧車に乗ると、上と下が一度に見下ろすことができるのだ。
坂を登るにつれて地価も高くなっていく、そんなひばりヶ丘に住み、下々の生活を見下ろすはずが、家庭崩壊してしまう遠藤家。その崩壊の原因をつくった坂は、夫を殺した美しい妻も破滅へと追いやったのであった。
『夜行観覧車』は小島家の妻の次の言葉で物語は終わりを迎えている。
長年くらしてきたところでも、一周まわって降りたときには、同じ景色が少し変わって見えるんじゃないかしら。
そして、『夜行観覧車』は「登場人物の名前が小説の内容と関係している」のである。
遠藤家の「遠」は、受験で落ちた私立S女学院を毎日横目に見ながら、坂道を降り続け、完全な平地になったところにある市立A中学校に三十分かけて通う娘のことを現しているのだ。
高橋家の「高」は、エリート、高級住宅地の中でも一番の豪邸であることなど、遠藤家と比較して、すべて高いということを現している。
このように「遠藤」「高橋」など、どこにでもいる名字が小説の内容と関係していることがある。作者の意図を探ること、これこそ文学の楽しみなのではないだろうか。
湊かなえさんは、各登場人物のプロフィールをじっくり練ってから執筆にとりかかるという。
『夜行観覧車』を読むにあたっては、登場人物の一人一人の言動を見逃さないことが大切だ。
読む本のリスト
ありがたいことにブログを読んでくださる人がいるみたいなので、最近興味のある本や、大学の授業関連の本のリストを、一言添えて置いておこうと思う。
相当の財産をもっている独身の男なら、きっと奥さんをほしがっているにちがいないということは、世界のどこへ行っても通る真理である。
十九世紀の作品にありがちな世の中の真理から始まる書き出しに惹き込まれて、ゼミの課題図書にした。予定では、『高慢と偏見』における結婚観などを考察できるようにしていきたい。
悩むのは、訳者によって解釈が微妙に違うので、どれを手にすればいいのかというものだ。
- 作者: ジェイン・オースティン,阿部知二
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2006/02/04
- メディア: 文庫
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BBCで放映されていたドラマ『PRIDE AND PREJUDICE(高慢と偏見)』のDVDを借りることが出来たので、まずは映像から入ってみようかなと思っている。
予定では、ゴールデンウイーク中に一気に観る! なんせ6時間ものなのだ・・・。
結婚観を比較する際に参考にしたい。現代やイギリス(高慢とry)やらと比較して、どちらが良いのか、ということはないが。
日本の死生観についての参考に。
神道的風土のなかで魂優位の感覚「霊肉二元」と、心と体は切っても切り離せないものとする感覚の「心身一元」の二つの考え方を持つ日本人は、臓器移植などの医療技術と対立しやすく、生きづらいものだ。
その他にも、生きづらさを感じていたり、世界観を変えたい人が読むべき一冊。
・『風呂と日本人』筒井功
あまり考えつかないものの「組み合わせ」で新しい世界や、新しい視点が見えてくるものである。
まあ、風呂と日本人は切っても切れない組み合わせかもしれないが・・・。最近シャワーで済ませる人が多いよね。お風呂って大事なのよ、ということを思い出させてくれるかもしれない。
ちなみに棺桶というのは、古くは「風呂桶」の形であった。つまり、死人を横に眠らせず、丸く屈ませた状態で土葬や火葬をしていたのだ。そこからも風呂と日本人の深いつながりを感じることができるであろう。
ちなみに今はフランス文学と愛 (講談社現代新書)を読んでいるところだ。
重要なのは、フランス語が「愛」の観念と特別な絆で結ばれているものとみなされ、「アムール」(amour)(≒愛)について特別な表現力を持つかのように考えられていたということなのだ。
第四章:結婚と愛、第五章:親子の愛を、卒論のテーマを視野に入れて読んでいる。
結婚観、ジェンダー、女性の描かれ方、親子(父と娘、母と娘)あたりがテーマになることだろう。
追記:『高慢と偏見』は、『天使のはしご』として- 宝塚歌劇団星組によりミュージカル化(2012年)しているとのこと。選んで良かった!!!!
1Q84を読了して
2014年が終わるまでに読むぞ!と決意して、12月から読み始めた1Q84。やっと読み終わって、自分の中に吸収できるまでになった。(2014年内に読み終わるという目標は達成できませんでした)
それで、自分が気になった部分を残しておこうと思う。(謎解きやら書評は他の人のブログなんかを読んでください。)
BOOK1前編(文庫本では数字の1)から
天吾が青豆のことを思い出すシーン
彼女が「証人会」信者であることはクラスの全員が知っていた。(中略)また彼女はお昼の給食を食べる前に、必ず特別なお祈りを唱えなくてはならなかった。それも大きな声で、誰にも聞こえるようにはっきりと唱える必要があった。当然のことながら、まわりの子供たちはそのお祈りを気味悪がった。彼女だってきっとそんなことは人前でやりたくなかったはずだ。しかし食事の前にはお祈りは唱えるものとたたき込まれていたし、ほかの信者が見ていないからといって、それを怠ることはできなかった。「お方さま」は高いところから、すべてを細かくごらんになっていたからだ。(中略)
天吾は心の中では彼女に同情していた。休みの日も親に連れられて家から家へと玄関のベルを押してまわらなくてはならないという、特異な共通点もあった。布教活動と集金業務の違いこそあれ、そんな役割を押しつけられることがどれほど深く子供の心を傷つけるものか、天吾にはよくわかっていた。日曜日には子供は、子供たち同士で心ゆくまで遊ぶべきなのだ。人々を脅して集金をしたり、恐ろしい世界の終わりを宣伝してまわったりするべきではないのだ。そんなことはーもしそうする必要があるならということだがー大人たちがやればいい。
1Q84はオウム真理教の事件を意識してつくられたものというのはよく知られていることだと思うけれど、ところどころに宗教の恐ろしさ、家族との関係についての描写があった。
大塚環やあゆみの恋愛依存の理由は父親や家族からの愛情が無かったからだし、天吾が十歳年上の練れた人妻にたっぷりかわいがってもらったのも母親の愛情が無かったからだろう。
そして、オウム真理教の事件後に生まれた子供が成人式を迎えた今、知らないまま宗教の恐ろしさにのめり込んでしまう若者が生まれないように。3月で20年を迎えるオウム真理教による地下鉄サリン事件のことを私たちは忘れてはいけない。
物語の中には哲学的な内容も 含まれていた。
BOOK2前編(文庫では数字の3)から
タマルは軽く咳払いをした。「ところで菜食主義の猫とネズミが出会った話を知っているか?」
「知らない」
「聞きたいか?」
「とても」
「一匹のネズミが屋根裏で、大きな雄猫に出くわした。ネズミは逃げ場のない片隅に追いつめられた。ネズミは震えながら言った、『猫さんお願いです。私を食べないで下さい。家族のところに帰らなくちゃならないんです。子供たちがお腹をすかせて待っています。どうか見逃して下さい。』猫は言った、『心配しなくていいよ。おまえを食べたりしない。実を言うと、大きな声じゃ言えないが、俺は菜食主義なんだ。肉はいっさい食べない。だから俺に出会ったのは、幸運だったよ。』ネズミは言った、『ああ、なんて素晴らしい日なんだろう。なんて僕は幸運なネズミなんだろう。菜食主義の猫さんに出会うなんて』。しかし次の瞬間、猫はネズミに襲いかかり、爪でしっかりと身体を押さえつけ、鋭い歯をその喉に食い込ませた。ネズミは苦しみながら最後の息で猫に尋ねた、『だって、あなたは菜食主義で肉はいっさい食べないって言ったじゃありませんか。あれは嘘だったんですか。』猫は舌なめずりをしながら言った、『ああ、俺は肉は食べないよ。そいつは嘘じゃない。だからお前をくわえて連れて帰って、レタスと交換するんだ』」
青豆は少し考えた。「その話のポイントは何なの?」
「ポイントはとくにない。さっきの幸運の話題が出たから、ふとこの話を思い出したんだ。ただそれだけだよ。もちろんポイントを見つけるのはあんたの自由だけどな」
「心温まる話」
どんな意味で書いたのかは分からないが、心温まる話ではないのだけは分かる。
1Q84という世界から抜け出せたのは天吾と青豆の純粋な「愛」のおかげという物語の終わり方は、今ある現実の世界には「愛」でしか救えないんだなということを感じさせられた。
- 作者: 村上春樹研究会
- 出版社/メーカー: データ・ハウス
- 発売日: 2009/07/02
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日本人はなぜ日本のことを知らないのかを読了して
私は慶應義塾大学の大学院で憲法の授業をしているが、学生たちに「日本はいつどのようにできたのか」と問うても、答えられる生徒はほとんどいない。(中略)
この事態を外国に置き換えてみると、日本の異常さが分かる。たとえば、アメリカの教育を受けたにもかかわらず、アメリカの独立戦争を知らず、初代大統領のジョージ・ワシントンを知らないアメリカ人などいるだろうか。
世界的な歴史学者として知られるアーノルド・トインビーは「十二、三歳くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」と述べた。終戦以降、民族の神話を教えなくなった日本にとって、この指摘は民族の滅亡を予言する恐ろしいものである。そして、これは占領政策の一環だった。(中略)
占領された後も、占領軍の意を受けた日本人が、その意識もないまま占領政策を忠実に実行しているのが今の日本の姿である。
そして、占領軍は的確に痛いところを突いてきた。神話教育をやめさせたのは、すでにそれだけで、ゆっくり時間をかけて民族を滅亡させることになるからだ。これは、日本民族が百年殺しの刑にかけられたようなもので、危機が迫っていることに気付くことすら難しい。
現在の日本では、神話は非科学的なものとして、学ぶに値しないものであるかのように扱われている。しかし、それが近代国家の作法と思ったら大間違いである。近代合理主義の成れの果てとも思えるアメリカですら、ギリシア神話や聖書を軸としたキリスト教神話の教育を徹底している。アメリカでは聖書を知らないとジョークの意味も分からないという。神話をていねいに教えることは、近代国家でも常識とされている。
「まっとうな日本人」といえるには、最低限、国の成り立ちくらいは知っておくべきだろう。本書では、日本はいつどのようにできたのかを探求することで、日本の本質に迫っていきたいと思う。
高校で日本の歴史を教える科目は「日本史」という名称になっているが、なぜ「国史」ではないのだろう。終戦までは「国史」という名称だった。これは、ただ科目名が変わっただけでなく、今の歴史教育が、日本人が学ぶべき日本の歴史ではないことを象徴しているのではないか。たとえばアメリカの学校には「アメリカ史」などという科目はない。あるのは「National History 」(国史)。同様に中華人民共和国の学校に「中国史」なる科目はなく、「国史」があるのみ。日本人や外国人が学ぶ他国の歴史から「アメリカ史」「中国史」でよいが、アメリカ人や中国人が学ぶ国史は、それとは内容が異なって当然である。(中略)
日本の高校で使われている「日本史」の教科書は、日本人が日本人に教える歴史ではなく、第三者が第三者に向けて、極めて客観的に、そして無機質に書かれている。まるで、宇宙人が「ある星のある島にこんな国がありました」と語っているように思える。これでは、歴史観を持った日本人を育てることはできない。
歴史を教えるのに、主観的に語るとそれは、歴史ではなく個人の思いになってしまうから、客観的に歴史の教科書が書かれていていいのにな、と思うのです。ただ、この本のおかげで日本に誇りを持つ人が少しでも増えればいいなと願っています。
馬鹿な女子大生の間では、竹田さんはスキャンダルの人って知られているので、私はマスコミに踊らされずに、さらなる著書を期待しています。
冷静と情熱のあいだを読了して
「下宿らうど」というクラウドソーシングの体験をさせてもらった時、趣味は読書なのってお話ししたら、おばあちゃんが読み終わったから、とくれたのが「冷静と情熱のあいだ」でした。
2冊をじっくり読み込みたいから、読書時間の経過を忘れさせてくれる季節「秋」に読もうってずっと思っていて、今、読了。
「冷静と情熱のあいだ」は、同じタイトルで違う作家による二冊の本が出版されているもの。
最初に江國香織がヒロインあおいの目線で、続いて辻仁成がヒーロー阿形順正(あがたじゅんせい)の目線で、文通のような恋愛小説が出来上がったのです。
時系列通り読みたいのであれば、赤と青の小説を一章ごと、交互に読んでいきます。
小説を読み終わっての気づいたことは、どんな恋も、一人の持ち分は1/2であるということ。
そして、優しすぎる男性は女性に選ばれることがないということ。
あおいとの思い出に縋る。現実の苦悩から離脱するために昔の記憶の、一番楽しかった頃を思い浮かべた。楽しかった頃・・・・
実際にはその期間は短い。なのに、その後の寂しい別れよりも、最初に思い出すのは美しい日々のことばかりだった。今は、特に綺麗な思い出だけを求めていたかった。二人でまわし読みした本。二人で聴いた音楽。二人で通ったカフェ。二人で歩いた道。二人で見た空・・・・・
切ないのに愛おしい描写がすごく響く作品でした。私は文学作品だと、決まって過去ばかり見つめるダメな男性が好きですねえ。
文字にして残すということは、どんな過去でも永遠に残しておきたいから、ということなんですよね。だから、過去に捕われる文学作品が多いのも頷けるけれど・・・。
現実世界では、今の自分を愛してくれる男性と未来をみていきたいものです。
「冷静と情熱のあいだ」は二人で過ごす特別でないただの一日のなかで、ヒロインあおいの30歳の誕生日にフィレンツェのドゥオモで会う、たわいもない約束をします。
あのね、約束をしてくれる?
どんな?
私の三十歳の誕生日に、フィレンツェのドゥオモのね、クーポラの上で待ち合わせをするの、どお?
フィレンツェのドゥオモ?どうしてそんな場所で?ミラノのドゥオモではいけないの?
ミラノの方は世界で一番綺麗なドゥオモで、フィレンツェの方は世界で一番素敵なドゥオモだってフェデリカが言ってた。
またフェデリカか。
何百段の階段を汗を流して必死で登り切った後に待っているフィレンツェの美しい中世の街並は、間違いなく恋人たちの心を結び付ける美徳があるんだそうよ。
でも別に、待ち合わせなんかしなくてもいいじゃないか。三十歳の君の誕生日にいっしょに行こうよ。
そうね、二人が別れていなければ。
へんなことを言う。それじゃまるでぼくたち別れちゃうみたいじゃないか。君は予言者かい?
わかんないわ。未来のことは。だからね、今日を大切に思うのなら、約束をして欲しいの。今日のこの気持ちをいつまでも自分たちのものだけにしたいから約束をするの。私の三十歳の誕生日に、クーポラの上で待っていて。
君が先に着くかもしれないじゃないか。
いいえ、わたしのことをいつまでも思ってくれるならあなたが先に登って待っていてくれなきゃだめ。
三十歳か。あと十年も先のことだ・・・
また、この作品ではイタリアのフィレンツェや修復士についての描写がたくさんあります。世界史を専攻していたのも重なって、イタリアの魅力にどっぷり浸かってしまいました。
イタリア語でルネッサンスのことを、Rinascimento(リナシメント)と言う。(中略)
フィレンツェはそのリナシメントの発祥の地である。近代的なビルをここで探すことは不可能に近い。
十六世紀以降、時間を止めてしまった街。まるで街全体が美術館といった感じ。
冬は暖房が効かず、凍えるように寒く、夏はその逆で風が抜けずに暑い。それを愛せなければここで暮らすことはできない。
ちなみに、私も三十歳の誕生日にフィレンツェのドゥオモで待ち合わせしたいなと思って、現在お付き合いしている人にこの話をしてみました。
すると「じゃあ、今すぐ別れよう」との返事が。これも楽しかった昔の思い出に、いつかなるのでしょうか。いやあ、楽しくないですね。
グレート・ギャッツビーを読了して
「華麗なるギャッツビー」の名前で、ディカプリオが演じた映画として、知っている人は少なくないでしょう。(2013年の話だからね。)その原作本「The Grreat Gatsby」は、F・スコット・フィッツジェラルドが執筆し1925年4月10日に出版したものです。
1920〜30年、大恐慌や第一次大戦に遭遇して価値観の基盤を失い、迷いに満ちた生き方をしたアメリカ人作家たちを総称して「失われた世代」“Lost Generation”と呼びます。フィッツジェラルドもヘミングウェイと並ぶ、その世代の一人。
しかし、ヘミングウェイと違って、フィッツジェラルドは存命中に「文学史に残る傑作」として世間に評価されることはなかったのです。
Modern Libraryの発表した、英語で書かれた20世紀最高の小説2位にランクされている『グレート・ギャッツビー』も評価され、ハイスクールにおける必須の副読本となり、毎年数十万部単位で売れるようになったのは、彼の死後のこと。
だからか、彼自身「ヘミングウェイこそが、現代文学の巨星で、自分はそれに比べればテクニックを心得た文学的娼婦みたいなものに過ぎない」と本気で考えていたような節があります。
そういう考えに至るには、彼の私生活が大きく関わっているのです。
フィッツジェラルドという作家は、自分が体験したことや、自分が目撃したことをもとにして物語を拵えていくタイプなので、『グレート・ギャッツビー』を読み始める前に彼の人生を知っておくと物語がより深みを増すように思います。
ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック (村上春樹翻訳ライブラリー)
- 作者: 村上春樹
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『グレート・ギャッツビー』は、目的のためには手段を選ばず富を貯えるジェイ・ギャッツビーと上流階級の金持ち層に対する批判的なニック(語り手)の二人が対照的に書かれています。この二人は、フィッツジェラルドの分身として作品の中で具体化されています。
また、長編小説を書くのに没頭したあまり妻のゼルダが浮気をするのですが、妻をヒロインのデイジー、自分を浮気された旦那トムの役柄にあてて描かれています。
村上春樹は次のように解釈しています。
スコットは本質的にゼルダという発熱を必要とし、ゼルダは本質的にスコットという発熱を必要としていたのだ。彼らはその発熱を通して、インスピレーションを鮮やかに交換し合い、高めていくことができた。だから二人の組み合わせは、人生のパートナー選びという点では決して間違ってはいなかった。ただ二人の熱量はそれぞれに一般常識の範囲を超えて強烈だったから、長期間にわたってバランス良く互いを支え合うことは不可能だった、ということなのだ。おまけにどちらの側にも、人生を送っていく上で必要な実務能力が決定的に欠如していた。お互いの持つ欠点をなんとか埋めていこうという意識も皆無だった。(中略)
しかし何はともあれ我々はここに、二人の類い稀な(あるいは一期一会と言ってしまっていいのかもしれない)発熱の結合が生み落としたものとして、『グレート・ギャッツビー』というほとんど完璧なフィクションを手にしている。我々はその事実をただ慶賀するしかないだろう。スコット・フィッツジェラルドとゼルダの巡らなくてはならなかった、華々しく、数奇で、そして哀しみに満ちた運命に対して、とてもひと言では言い表せない深い思いを抱きながら、それでも。
日本では翻訳本として、野崎孝訳、大貫三郎訳、佐藤亮一訳、橋本福夫訳、守屋陽一訳、村上春樹訳、小川高義訳のものがあります。
私がオススメなのは村上春樹の翻訳本です。理由は、そもそも村上春樹作品が好きだからということと、村上春樹の『グレート・ギャッツビー』の翻訳にかける思い入れが強いこと。村上春樹の翻訳本では「現代の物語」になっていて、ひとつひとつの会話(ダイアローグ)が生命を持ったものであり、さらに、文章がリズムに乗っています。
終わりに『グレート・ギャッツビー』をこの3つの内、どれかに当てはまる人には、ぜひ読んでいただきたいと思います。
1つに、バブル崩壊後の日本の失われた20年生まれの私と同じ世代の若者。きっと、フィッツジェラルドと同じような「失われた時代」を生きてきたものにしか味わえない感覚を掴むことが出来ます。
2つに、村上春樹作品をこよなく愛する人。私自身、村上春樹作品を貪りつくように読んでいる読者の一人なのですが、 まだ翻訳本には手をつけることが出来ていませんでした。村上春樹の純粋な作品もまだ全部読み終えていないのに、先に翻訳本を読むなんて・・・と思っていたのです。しかし、彼の人生で一冊だけ選ぶ重要な作品として挙げるのが『グレート・ギャッツビー』とのこと。巡り会わなかったら、今とは違う作品を書いていたかもしれないし、あるいは何も書いていなかったかもしれないそう。
3つに、これからニューヨークにむかう人。『グレート・ギャッツビー』を読めばニューヨークのことがわかります。たとえ1925年というかなり昔の作品であっても。
深く心に残るアメリカ文学作品、長い秋の夜のお供にどうぞ。
- 作者: スコットフィッツジェラルド,Francis Scott Fitzgerald,村上春樹
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
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スパルタ婚活塾を読了して
今日久しぶりにアルバイトに行ったら、over30歳の独女に「約一年付き合った彼氏と自分は結婚したいけれど、相手に結婚する気がなくて困っている友達にどうアドバイスしたら良かったのかな・・・」と重い話をされました。
おも〜〜い、重いよと思いつつもブログのネタにもなると思って最近電車にも広告が載っている「スパルタ婚活塾」を読んで「結婚」について考えてみることに。
簡単に説明すると、この本はモテる女とモテない女の違いを「男目線」で研究した本です。
私がぜひ私生活で実践していきたいなと思ったのは「おさわり四十八手」と「NGP理論(ネバーギブアッププロポーズ理論)」です。
◆歩き疲れて「休もうか」となったとき、「じゃあちょっと区役所寄ってく?」
◆「ウィンドウショッピングだけだから!ウィンドウショッピングだけだから!」と言いながら、目を限界まで見開いて婚約指輪を凝視する
◆「今日のあなたの格好、すごいセクシー。セクシーっていうか、ゼクシィだよね」
◆ファミレスの名前を書くところで、名字を同じにする
◆携帯のメアドを「I need wedding@」にしていいか聞く
◆居酒屋で左手の薬指にチクワをはめる遊びをねだる
◆ファミレスでステーキをケーキ入刀みたいに一緒に切ろうとする。そのまま他の席の客にキャンドルサービスを始めようとする
◆すべての語尾に「婚」をつける。例「あー、今日は楽しかった婚。次、いつ会う婚?」
◆「びっくりしないで欲しいんだけど。私、子どもが・・・出来ちゃってないんだ!」
◆彼氏の車の後ろに空き缶をたくさんつなげようとする
◆彼氏がダメなことをするたびに「これは結婚したら先が思いやられるわぁ」と嬉しそうに言う
◆人数が足りないとき、何かと彼氏の家族を呼ぼうとする
◆「この店のマスターすごい感じいいよねー。(マスターに)仲人になってもらえます?」
◆カラオケでは「バタフライ」「家族になろうよ」「てんとう虫のサンバ」以外歌わない
◆「結婚しろ」「身を固めろ」という言葉を覚えさせたオウムを彼氏にプレゼントする
(「おさわり四十八手」については本を買って、読んで、腹を抱えて頂きたいです。)
「なんでこんなくだらない本をブログでわざわざ紹介するんだよw」と思う人もいるかと思いますが、この作者は「夢をかなえるゾウ」や「人生はニャンとかなる!」「人生はワンチャンス!」「それでも僕は夢を見る」など本屋で見たことがある本ばかりを書く、印税がっぽりの人なんですね。
それで、私も「くだらないw」と思いつつも、人気の秘密を探るべく読み進めました。
すると、笑いあり、涙ありで・・・、ああコレは売れる本だわとうなずけました。
とにかく結婚したい女は諦めるな!っていうことを学んだので、アラサー独女にも教えたいなと思ったのでした。