編集大学生に参加して思ったこと
アセナビの編集長が司会、プレスラボのインターン生が運営、ノオト所属の記者・編集者の朽木誠一郎さんが登壇者の「編集大学生vol.2」というイベントに参加しました。
ちなみにこのブログでは、朽木さんがお話してくださった内容には言及しません。なぜなら私は参加費1,500円を払ってお話を聞いたから。
ツイッターでイベントの実況をするのもいいけれど、それで得られるのって「いいね♡」だけですよね。
実況して喜んでくれるのって、参加すらしない「意識だけは高い人」だけ。そんな人からの「いいね♡」要らなくない?
なので、参加費1,500円にさらなる付加価値を乗せるために、朽木さんの貴重なお話の内容はここでは語りません。(この記事の読者は、イベント参加者を想起しております。)
私が今回このブログを書く理由は、参加費1,500円を無駄にしたくないからです。
朽木さんのお話でもあったように、アウトプットが大事なので、思ったことを文章にすることにしました。
では、登壇者の話の内容以外に何を書くのか。
イベントでは「ライターと編集者の違い」の話が出ていましたが、そこをさらに掘り下げて記者、ライター、コラムニストの定義を書いていきます。
そして、その定義を踏まえた上で、これからWEBでライターや、編集を始めようと思っている人へのエール、自称ライター/編集者への警告を書きます。
まずは記者、ライター、コラムニストの定義について。
記者:「新聞記者」という言葉があるように、「トルコの首都アンカラで●月●日、〜があった。トルコ政府によると〜」という事実のみを書く。文章には要点を先に書き、詳細な説明を後に書く特徴がある。極力執筆者の個性は出さない。
ライター:インタビューや取材が多い。人の話したことを記事に落とし込むみ、自分の姿を消す。ライターと記者は似ている。
コラムニスト:自分の意見を何かの事象に合わせて書く人のこと。多くのコラムニストは、はジャンルに特化している。(例:恋愛コラムニスト)
以上の定義から、自分がどんな文章を書きたいかをもう一度考えてみることが大切になります。
記事を書いて誰かに認められたい人は、「ライター」を目指すよりも「コラムニスト」を目指す方が良いでしょう。或いは、媒体や読者に制限されることなく自由に書きたい人はブログを利用するといいかも。
そして物書きを職業にしたい人は、最終的に「何でも書ける人」を目指していく。一番大切なのは、物書きを職業として食いっぱぐれないことだからです。
おこがましいですが、私からは、「自分が記者、ライター、コラムニストのどれに合うのかは沢山書いてみないと分からないから、まずは誰かに書いた記事を修正してもらえる場所で沢山書いていこうね」というアドヴァイスをしておきます。
私は(もちろん前提として個人ブログを書いていて)恋愛コラムを読み漁っていた時、これなら私も書けるかもと思い、女性WEBメディアでアルバイトに応募しました。
採用はされたのですが、「読者が読みたいものじゃない」と何度もコラムを書いてはダメ出しをされ、編集長が校正した記事を修正する編集作業をしながら、仕事を覚えていき、初めてWEBに自分のコラムが掲載されたのは、アルバイトを始めて4ヶ月ぐらいの頃でした。
自分には才能が無いのかもとか、この記事の何が悪いんだろうとか、色々思うところはあったけれども、何よりもその媒体や書くことが好きという気持ちと、負けず嫌いの性格のおかげで、だんだん企画や記事が通るようになっていきました。
これは2年前の話で、そのサイトも当時は量よりも「記事の質」を重視していたので、今の私がいます。
ただ私は、今回自分の苦労話をして、偉いぞアピールをするつもりはありません。
伝えたいことは、イベントに参加するぐらい意識の高い人は、「編集大学生」と名乗る者としての誇りを持つべきなのではないか、というものです。
私がライターを目指した当時よりもWEBメディアが乱立している今は、何でも良いから記事を公開するサイトが増えてきています。
そこで思うことが色々あるわけです。例えば、記事は質より量、バズればいいとか、ライターのタレント化とか。
WEBライターの職業が良くも悪くも目立つようになってきた現在、ライターになりたい人が増えているのは良いことなのだろうけど、ブログもやってない、読んでる記事も少ない、読んでる媒体の数も少ない人が、果たして他の人に認められるライターになれるのでしょうか。
ここでは私が女性アイドルが好きなので、アイドルで例えてみようと思います。
「アイドル戦国時代」と言われ、多くのアイドルやアイドルグループが生まれました。
アイドルになりたい人が増え、なれる人が増えています。ですが、歌がやりたいわけでなく、踊りがやりたいわけでもない、ただ「アイドル」になってちやほやされたい人が、アイドルを名乗っています。
では、その中でアイドルの仕事だけで食べていける人がどのくらいいるのでしょうか。
自称でも「アイドル」を名乗れば、ちやほやされたり、ファンも少しはつくでしょう。ですがその人は日本の社会から見ると、アイドルではなく、「フリーター」です。
この話は、アイドルとライターを差し替えてもかわりませんよね。
ライターの中には、ちやほやされることで満足する人、有名になれればそれで良い人がいるかもしれません。或いは、大事なのは記事を書くことじゃなくてお金を稼ぐことかもしれません。
ただ、せっかく「編集大学生」のイベントに参加するほど意識が高いんだから、もう少し一生懸命文章を書いていったほうが良いんじゃないのかな…と思ったのでした。
この記事を読んで、これからライターを目指す人で相談があれば、私で良ければお話聞きます。
また、現在ライターとして活躍している人で熱く語りたい人がいれば、是非とも語り合いましょう。
私はイベントに参加し、ブログを書くことで、ライターを名乗るためには、写真も撮れるようにならなくちゃなと思い、一眼レフカメラを購入しました。
また、早くて質の良い記事を書けるように、今までの記事の構成の仕方を見直そうと思いました。
「編集大学生」のイベントに参加して、あなたは何をアウトプットしましたか?
今年買った本に一言ずつ感想を加えてまとめた<小説・エッセイ>
今週のお題「今年買って良かったモノ」
というか、今年買った本をまとめてみた。一言ずつ感想も書いていく。まずは、日本の作品から。なお、読み終わった本とは限らない。
<小説・エッセイ>(作家名順)
朝井リョウ『武道館』
発売してからアイドルオタクの間で話題になっていた。私もインタビューが載っていた
ダ・ヴィンチ 2015年 6月号も購入するほど熱狂ぶりを見せた。
刊行時に行われた、朝井リョウさん握手&サイン会にも行った。緊張して手汗がすごく、服の腕の生地の部分で手を拭ったら「斬新な手の拭き方ですね」とコメントされたことは、きっと忘れない。
しかし、まだ読んでいない…。
五十嵐貴久『編集ガール』
出版社に勤務しつつも経理担当なので編集の仕事をしたことがない主人公・高沢久美子、三十一歳。そんな彼女の通販雑誌を新たに刊行するという新企画が通り、いきなり編集長になる話。
雑誌を出版するまでの仕事内容が物語を読みながら理解できる。
伊坂幸太郎『あるキング』
伊坂幸太郎デビュー15周年で三ヶ月連続刊行、第一弾。初回限定特典特別ショートストーリーが封入されていたので購入。まだ読んでいない……。
伊坂幸太郎デビュー15周年で三ヶ月連続刊行、第一弾。初回限定特典特別ショートストーリーが封入されていたので購入。まだ読んでいない……。たった今発覚したことだが、第三弾は購入し忘れている……。
石田衣良『コンカツ?』
アラサー女性四人が婚活する話。恵比寿が舞台。東京で一流企業に勤める独身女性を主人公に、婚活の実態を小説化するとこうなるのかと思った。
石田衣良『1ポンドの悲しみ』
迷い、傷つきながらも恋をする女性たちを描いた、10のショートストーリー。
私は「デートは本屋で」が一番好き。だって私も主人公のように、相手が好ましい人間かどうかを、本を読むか読まないかで決めてしまうところがあるから。
「NHK特集 シルクロード」を大学の授業で見て、敦煌莫高窟、第17窟をめぐる謎に惹かれて購入。映画化もされている。まだ読んでいない。
37歳のツキコさんと、学生時代の国語の恩師(70)の年齢のはなれた男女の静かな交流を描いた恋愛小説。オッサン世代に大人気らしい。読んでいる途中。
『富嶽百景』が読みたくて購入。他の出版社からも出版されているが、新潮文庫の純文学作品は背表紙が黒で統一されていて、本棚に飾るとすっごく映えるので、新潮文庫で購入。家の本棚に置く作品は、背表紙で選ぶのもまた良いものだ。
太宰治『斜陽』
今年のNKH「100分de名著」で放送され、話題となった作品。 番組のテキストと一緒に購入すると、理解しやすい。(番組テキスト:太宰治『斜陽』 2015年9月 (100分 de 名著))『女生徒』が好きな人はハマるかも。
東京宝塚劇場で2015年11月27日(金)~ 12月27日(日)に公演される、花組公演『新源氏物語』の脚本のもとになった作品ということで購入。
田辺聖子『言い寄る』
累計160万部!伝説の「乃里子三部作」復刊だと本の帯に書かれている。
一部『私的生活』、二部『苺をつぶしながら』どれも読んでいないのに、どうして購入したんだろう? 誰かに勧められたっけ? もちろん、まだ読んでいない。一部から読みたい…。
林真理子『白蓮れんれん』
NHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」でもおなじみ蓮さまこと、柳原白蓮の伝記小説。
燁子(白蓮)にとって知性というものは、今もなお最も憧憬に価するものであり、かつ劣等感に苦しめられるものである。最初の結婚の頃、学習院に在籍していたもののほとんど学校に行くことも、本を読むこともなかった夫のことを、どれほど口惜しく軽蔑した目で見ていたことだろう。高等学校、帝大へと進む男たちが本当に眩しく、もしやり直せるものならば、ああした男たちと結ばれたかったと、張り裂けるような気持ちで制服姿の彼らを見つめたことがある。
しかしどういう運命の皮肉か、いま燁子は前よりもさらに恵まれてはいない。二番目の夫は文字を解さないと世間で噂されている。実際は講談本ぐらいは読めるのであるが、書くとなるとその字を恥じていっさい筆は持たない。伝右衛門のあの人並はずれた好色さの原因のひとつは、無学からくるものではないかと燁子は思う。
この頁に付箋が貼ってあったところをみると、私はやっぱり知性のある人が好きなんだと思う。(白蓮)は加筆。
三浦しをん『秘密の花園』
カトリック系女子高校に通う、三人の少女、那由多、淑子、翠の青春小説。「洪水のあとに」、「地下を照らす光」、「廃園の花守りは唄う」と三人がそれぞれ主人公、一人称で物語は語られる。百合好きには堪らない作品だ。エロい描写がないところも美しい。
ドラマ化もされている。すごいハマってブログも書いた。
初期の三作品が入っている。私はまだ『ベッドタイムアイズ』しか読めていない。
大人な恋愛小説だ。これがデビュー作とは驚き。
この作品で卒論を書くことにしたぐらい、好きだ。この本には『蝶々の纏足』、『風葬の教室』、『こぎつねこん』の三作品が含まれている。好きすぎて『蝶々の纏足』だけの小説も探して購入した。どちらも作品解説も気に入っている。
渡辺淳一『花埋み』
荻野吟子の伝記小説。堀江貴文さんが収監されていた時に読んでいたらしい。NewsPicksの堀江さんのお勧め本の記事を読んで購入。145頁まで読んだ。543頁まである。
伝記小説が好きなのか、この作品が好きなのかは分からないが、面白い。時間をおかずに一気に読みたい作品だ。
今年買った<小説・エッセイ>単行本、文庫本は以上だ。書き記して気づいたことは、本を購入すると、いつでも読めると思って、いわゆる“積読”ばかりしていることだ。
あと、NHKが好き。
単行本、文庫本として購入する本は、好きな作家や名著と言われているものが多いなと感じた。
ちなみに、今回まとめた(白蓮、1ポンド、蝶々を除く)小説は全て新本購入。消費税8%で計算すると合計金額は、9,254円でした。
評論、新書、Kindle本の購入も含めるとどうなるんだろう……。
『春秋戦国完全ビジュアルガイド』を読了して
今年の秋は、何かに取り憑かれたように古代中国史にハマっていた。
事の始まりは、大学の選択必修科目の、古代中国の辺境と文芸を扱う授業を取ったこと。
大学の第二外国語で中国語を選択したし、時間割の都合もちょうど良いし、先生が面白いから取ろう、三国志もいつか勉強してみたいし……と軽い気持ちで選んだ。
この講義の目的は、古代中国における「辺境」をテーマに、周王朝を中心に多数の国家が分立した春秋戦国時代についての文学作品を通じて、21世紀の多極化した世界を理解し,文化的・精神的次元における幅広い視野を培うことを目指すこと。
だが、そもそも春秋戦国時代は紀元前の頃なので、文学作品は、司馬遷『史記』、魯の年代記『春秋』、『楚辞』、『戦国策』と言った歴史書ぐらいしかない。文学的アプローチなんてものはできないのだ。講師の解説に耳を傾けるだけの授業、つまりは歴史の授業を受けているようなものである。
世界史の授業は好きだったけど、専門分野でもないし、気軽に授業を受けよう、と思っていたのだが、ハマってしまった。
伝説の夏王朝から、殷(商)、周、春秋、戦国、秦、漢、三国時代、と続く中国の歴史。
この古代王朝の変遷を字面で見る限りでは、結構簡単に統一しているように思えるが、この統一までには数々のドラマがあった。
実は何度も国が統一と分裂を繰り返しているのだ。
殷を滅ぼした周は、初めて中国を統一した秦に滅ぼされるまで、国は存在していたものの、小国になっていった。
殷を滅ぼし、都を鎬京においていた時代の周を西周と呼び、西方の犬戎に都・鎬京を攻略され、洛邑に東遷した前770年からの周を東周と呼ぶ。
西周時代は、周の王を天子とし、その下に今で言う県知事みたいな諸侯を統制して国として統治していた。
だが東周とも呼ばれる周王朝が諸侯を統制する力を失い、名目だけの存在になると、力のある有力諸侯(県知事)は弱い諸侯を糾合し、さらに力をつけていく。
力をつけた諸侯の中には、周王室に代わって、諸侯同士の紛争の仲裁や異民族の討伐などを行う者が現れる。これが「覇者」だ。覇者には当初、東周の王室を奉じるという大義名分があったが、実力主義の色合いが濃くなってくる。
周の北に位置する晋という国が韓・魏・趙の3国に分裂し、前403年周王によって三家が諸侯として認められたところから、諸侯の下克上の時代、戦国時代が始まる。
春秋時代は「尊王攘夷」という周王室を尊び、異民族の侵入を討ち払うというスローガンのもと、世襲の貴族の時代であった。
対して、戦国時代は下克上、実力主義の時代。そのため、諸侯は誰を役人や将軍にするかの選択が重要になる。言わば人材の時代になった。
この人材の時代になったおかげで、才能やユニークな人が重用され、古事成語やことわざが生まれ、諸子百家と呼ばれる思想家も生まれた。ここに、古代中国史の面白さが生まれたのだ!
(つらつらと春秋戦国時代の概要を書いてきましたが、この本のなか見!検索を見ると解りやすいかも。)
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「人材」の時代、戦国時代。そんな時代に生きた一人に惹かれて、私は古代中国史に夢中になった。
その人物とは、小国だったが新たな法律を制定したことで強国になり、後に中国統一まで果たす秦に改革をもたらした法家・商鞅だ。
商鞅は若い頃、魏という国で宰相の公叔座に仕えていた。公叔座は商鞅の賢明なのを知っていたが、まだ王に推薦の機会がなかった。
公叔座が病に倒れた際、魏の恵王は言った。
「きみの病気に、もしものことがあるときは、国家を誰に託したらよかろう。」公叔は言った。「わたくしの中庶子公孫鞅(商鞅)は、年少ながら奇才のある人物でございます。王には国政を挙げて、彼にお聴きになるのが、よろしいようにぞんじます。」王は黙然としていたが、やがて、立ち去ろうとするので、座(公叔座)は人払いをし、「王が、もし鞅を用いることをお聴き入れにならないなら、かならず彼を殺して、国外に出してはなりませんぬ」と言った。
王がうなずいて帰ると、公叔座は鞅を招き、詫びて言った。「さきほど王から、誰か宰相になる人物はないかと問われたので、私はおまえを推薦したが、王の顔つきでは、私のことばを受け入れられそうではなかった。私としては、わが君を第一に、わが臣を二の次に考えるので、王に『もし鞅を用いられないなら殺されるがよい』と言ったところ、王はうなずかれた。おまえは、はやく逃げるがよい。いまに虜にされるかもしれない。」
鞅は「 」と言って、ついに逃げなかった。
『史記 商君列伝 第八』(小竹文夫・小竹武夫訳,1995年,『史記』(全8冊)(ちくま学芸文庫))
突然ですが、この鞅のセリフに入る言葉を考えてみよう。
私は「お仕えしておりますあなたに推薦していただけたのに、逃げることは出来ません」かな、と考えてみたのだが、商鞅は、このように公叔座に言ったのだった。
鞅は「王はあなたの言葉を聞いて私を登用することができませんでした。そんな王があなたの言葉を聞き入れて私を果たして殺せるでしょうか」と言って、ついに逃げなかった。
公叔座の推薦で私を用いないんだから、公叔座の意見を聞いて私をことを殺すこともないでしょう、と。
事実、逃げなかった商鞅は殺されることはなかった。だが、魏の恵王は公叔座の後任にも認めなかった。
魏に未練のない商鞅は、秦の若き君主・考公が人手を募っていること知り、秦へと旅立って行った。
その後、法整備をして秦を法治国家に生まれ変わらせ、富国強兵を狙いとした。この改革では世襲を禁止することを基本とし、資産に流動性が生まれ、農民ですら土地を持てるようになり、 多くの国民にチャンスが拡がった。
いいことをすれば多大な褒章、悪事をはたらけば残酷な処刑。
極端な飴と鞭で法の平等と厳密性を知らしめ、秦を法治国家へと変貌させた法家が商鞅なのだ。
こんな奇才な人物が活躍するのが戦国時代。
他の人物伝も気になった私は、アマゾンで『春秋戦国完全ビジュアルガイド』を購入。『史記』や『春秋左氏伝』なんかも気になるが、初心者に優しいものから攻めていこうと思った。人物一人ひとりに「武力・知力・政治力・弁舌・人格・俠気」のパラメータ付きだ。時代ごとの概要、古事成語のコラム解説もついていて、理解しやすい。
ちなみに、私が大好きな商鞅は人格は1であった。知力4、政治力4、弁舌5の魅力的な男性であっても、人格が1とは、まるで私がダメンズが好きみたいじゃないか。
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大学の授業では「周→春秋→戦国→秦」と言った、周の分裂から中国を初めて統一した秦までを扱うが、楚漢戦争時代から漢の成立までの人物が網羅できる。
大学では『図説 地図とあらすじでわかる!史記』を解説書として推薦している。なお、2013年に加筆修正した新書版が出ているので、購入の際はそちらをすすめる。
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また、『争覇春秋戦国―五覇七雄、興亡の五百年 (歴史群像シリーズ (78))』も推薦図書だ。表紙がちょっと怖いが、『春秋戦国Q&A』では「外国人宰相が大権を手に出来たのはなぜか」、「遊説者は言葉の壁をどう乗り越えたのか」などを取り上げていて初心者にも優しいらしい。
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あとは話題の漫画『キングダム』を手に取るもの、勉強しやすいのかな。ただ、現在40巻も出ていて、まだまだ連載は続くようなので、覚悟して。
春秋戦国時代にハマっていくと、宮城谷昌光や司馬遼太郎の小説にも手を出すことになるんだろうなと感じているのが現状だ。
また、日本人は三国志が好きな人が多いが、三国志の諸葛孔明が尊敬している蘇秦・張儀を知らずして、三国志好きを名乗れるのだろうか。三国志の前に春秋戦国時代を学ぶとさらなる勉強の楽しみが訪れるだろう。
一通り春秋戦国時代を勉強したので、現在東京国立博物館で開催している特別展「始皇帝と大兵馬俑」 に足を運ぼうとも思っている。
『〈わたし〉を生きる 女たちの肖像』を読了して
島崎今日子『〈わたし〉を生きる 女たちの肖像』は二〇一一年に紀伊国屋書店から出版された。この本に収録されているのは『婦人公論』に載った「上野千鶴子」を除いて、『アエラ』の「現代の肖像」で掲載されたものである。
卒論で山田詠美『蝶々の纏足』を扱う予定なので、作家の特集もチェックしている。
本の中で「表現者の孤独」として分類された、山田詠美さんの記事は、本人の写真の横に「欲望を文学に昇華する永遠の“あばずれ”」と書かれていた。
山田の作品は『蝶々の纏足』「十六にして、私、人生を知り尽くした」、デビュー作『ベッドタイムアイズ』「スプーンは私をかわいがるのがとてもうまい」のように、始めの一文から惚れ込んでしまうのだが、この特集も「何書いてもいいからさ、終わったら飲みに行こうよ」から始まる。
詠美さんは、とにかくカッコイイの一言に尽きる。長女で二人の妹がいる詠美さんは、「山田家の長男」の役割も果たす。彼女の文体は硬質で、セックスを描いてもエロとは遠く、物語は感情と関係に収斂される。
詠美さんと同年代の作家で、友人でもある島田雅彦さんは、彼女を「時代と闘ってきた女。彼女の本質はゲイだから」と看破し、語る。
「男女平等にもかかわらず、女は相も変わらず媚を売って可愛いほうがいいという世の中。心ある女はゲイにならざるを得ない」
日本を代表する女性作家と誰もが認める山田が、『ベッドタイムアイズ』でスキャンダルという銀粉をまき散らしながら文壇に衝撃的なデビューを果たしたのは一九八五年だ。男女雇用機会均等法が制定され、松田聖子が結婚し、日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落した年。切ない恋物語は相手が黒人だというだけでふしだらと烙印を押され、私生活共々、写真週刊誌やワイドショーの標的となった。
「異人種、それも黒人と付き合って、その色恋沙汰を書いたことが日本男児の反感を煽ったんだね。でも、男は大昔からやっているじゃない。『舞姫』の太田なんて、はっきり言って鬼畜だよ。私は不道徳と言われることいっぱい書いてきたけれど、人としてのマナーは守ってきた」
山田の恋愛小説は女が男を選び、肉体からすべてが始まる。今でこそそうした小説はあるが、水路を拓いたのは山田だ。
詠美さんの文学に対する真摯さを感じる特集が読めて本当に嬉しい。
この本は、作る作業が始まった頃に東日本大震災が起こったそうだ。当時、震災の影響で紙が不足して、雑誌の発売延期や中止が相次ぎ、出版するのを考え直したとのこと。だが、編集者の有馬由起子さんのおかげで本ができたそうだ。
著者、編集者、その他大勢の方のお陰で出版されたこの本に、インタビューを受けた女性たちの生き方に、読者は励まされることだろう。
『現代文化論 社会理論で読み解くポップカルチャー』を読了して
『現代文化論: 社会理論で読み解くポップカルチャー』は二〇一一年にミネルヴァ書房から、映画、テレビドラマ、ポピュラーミュージック、マンガ、アニメ、文学、パーソナル・コンピュータ(ウェブ)、ファッション、観光、お笑いといった十の領域を通して、現代におけるポップカルチャーの現象について考えるための視点や理論を身につけることを目的に出版された。
私たちは映画やテレビドラマを見てその登場人物に憧れたり、ポピュラーミュージックを聴いて心を躍らせたりしながら、ポップカルチャーに日常的に接し、これらを楽しんでいる。だが、こうした文化現象はそれ自体、社会から離れたところで独立して存在しているのではない。私たちは無意識のうちに「社会的なもの」と結びつき、深く影響を受けている。
このことをアメリカの文芸評論家、フレドリック・ジェイムソンは『政治的無意識ー社会的象徴行為としての物語』(平凡社ライブラリー、1981=2010)において「政治的無意識」と呼んでいる。
彼によれば、一見まったく政治的に見えないような作品でさえ、それだけで自足して存在している「記号の戯れ」では決してない。彼にとって文学作品は、つねに社会的な欲望や希望が刻印されたものなのだ。文学のうちに無意識に表現されている「社会的なもの」は、人々をこれまで抑圧してきたものであると同時に、人々を未来へと誘うものでもある。ジェイムソンは、文学の中の「政治的無意識」=「社会的なもの」を明るみにだし、歴史の中へと解放していくことが、文学を考察する上で重要だと考えた。
このジェイムソンの主張に沿って、『現代文化論: 社会理論で読み解くポップカルチャー』は文化現象から「政治的無意識」を明らかにし、「社会性」を考察している。各章すべてに「視点&セオリー」と「ケーススタディ」の節が設けられている。また、章の最後には、学習を進めるのに役立つ本が数冊「ブックレビュー」として紹介されている。
「ポップカルチャーとは何ぞや?」と思っていた私にも、現代における文化現象について考えるための視点や理論を身につけられる書物であった。
特に、「観光」も文化現象のひとつであり、現代社会の徴候が先鋭的に現れる場(トポス)となっていること、そして、観光という文化現象を「擬似イベント」「シュミレーション」という視点で考察できることに驚いた。
アメリカの社会評論家であるダニエル・ブーアスティンは『幻影の時代ーマスコミが製造する現実』という本の中で、雑誌、テレビ、映画、広告といった複製技術メディアで描き出されたイメージの方が現実よりも力をもつという現象を「擬似イベント」と名づけている。(遠藤、124頁)
現実やオリジナルよりも、現実やオリジナルを分かりやすくドラマティックに演出しながら伝えてくれる「擬似イベント」の方に、私たちは深いリアリティ(現実感)を抱き始めるようになっていると遠藤は述べる。
本書では、「(雑誌の写真と)同じだ〜!」と現実の観光地がメディアで描き出されたイメージと同じかどうかを確認しているシーンが例に挙げられている。
ここには、観光という社会現象に関して非常に興味深い構図を見出すことができる。すなわち、現実そのものよりもメディアによるイメージの方がリアリティをもち、そうしたイメージを確認するために現実の観光地を訪れるようになっているという構図である。(略)ブーアスティンは観光地の本当の姿、本当の文化よりも、観光パンフレット、観光情報誌、映画、テレビなどのメディアによるイメージの方に観光客は惹かれるようになっており、そうしたイメージを確認するために現実の観光地へと出かけるのではないかと考えたのである。(遠藤、127頁)
果たして観光とはメディアによってつくり上げられた「擬似的なもの」に過ぎないのだろうか。遠藤はブーアスティンの主張を批判したものとしてアメリカの観光社会学者ディーン・マキャーネル『ザ・ツーリスト』(1976)を挙げている。
マキャーネルによれば、観光客たちは、つくり上げられ飾り立てられた観光空間を望んではおらず、観光地で暮らす人びとの本物の暮らし、本来の何も手が加えられていない真正な文化を経験したいという、真正なものに対する願望に駆り立てられるとされている。(略)マキャーネルはそうした状況を、社会学者アーヴィング・ゴフマンの用語を借りて「表舞台(front region)」ではなく「舞台裏(back region)」を観光客が求めているのだと表現する。(遠藤、129頁)
しかし、マキャーネルの観光客が現地の人びととの本物の暮らしといった「舞台裏」を希求するという主張に、遠藤は観光客が見たり経験したりしたものがはたして本物かどうかは、確かめられないと述べる。本当の暮らしぶりや文化だと思っていたのに、実は、観光客が訪問してもよいように演出された「表舞台」であるといった場合があるからだ。
ブーアスティンの「擬似イベント」論はメディア・イメージによってつくられた偽物ばかりになっている状況を憂え、本物の復権を主張していた。だが1970年代から1980年代にかけて、社会はメディア社会になっていく。私たちはメディアを抜きに思考することができなくなっており、メディアを単なる道具として操っているというのではなく、私たち自身がメディアの世界の住人となっていると遠藤は述べる。
ブーアスティンもマキャーネルも「本物/偽物」という区分のもとで観光状況を考えていた。だが、遠藤はメディア化された社会では「本物」という基準点も次第に失われ、全てはメディアの中で複製された情報の中の出来事となっていくと述べる。
このように、すべてがオリジナルなきコピーとなった状況のことを、ボードリヤールは「シュミレーション」と呼んでいることを、最後に遠藤は紹介している。(塚原史『ボードリヤールという生きかた』2005,104-114頁を参照)
そして、この「シュミレーション」に彩られた世界として「ディズニーリゾート」が挙げられている。観光客は、すべてがメディアにつくられている「シュミレーション」であることを了解し、それを前提に楽しんでいるのだ。
今回の「シュミレーション」に彩られた世界は商業施設でしか作れないのか、メディアでも作れるのかは今後の課題としたい。(考えられるのは、アメーバ●グでお出かけ?)
ただ、現存する観光地のメディア(記事)作りでは、webサイトだからこそできる読者との会話、受け手の関与度を大切に「本物」にこだわって作っていくべきなのだろうと感じた。
観光社会学という学問があって奥が深いことに気づけた書物であった。
(本を取ったきっかけは文学とファッションの社会理論での読み解き方が知りたかったから、といのはここだけの話。)
「擬似イベント」や「シュミレーション」以外に、観光社会学にどのような視点や理論があるのかについて述べられているそうだ。観光社会学に興味を持ったのならば、一読する価値があるとのこと。著者の遠藤英樹さんは観光社会学が専門だ。
『風味絶佳』を読了して
『風味絶佳』は二〇〇八年に文藝春秋から出版された、山田詠美の作家二十周年を記念した恋愛小説だ。職人の域に踏み込もうとする人々から滲む風味が六粒味わえる。
小説の六粒、そして、『風味絶佳』という短編集のタイトルは、あの森永ミルクキャラメルの黄色い箱から取られたものであった。
最近、書籍情報誌『ダ・ヴィンチ』とのコラボで、ミルクキャラメルの中箱の裏面に、期間限定で直木賞作家の朝井リョウさんと角田光代さんのオリジナルショートストーリーが掲載されたのは記憶に新しいと思う。
そんなミルクキャラメルについて、山田詠美は登場人物に「恋人」と言わせる。
ユニフォームのポケットから、森永ミルクキャラメルの黄色い箱を取り出した場合。
それに目をとめたたいていの人は、懐かし気な表情を浮かべる。今時、珍しいねえ、と言う。昔、遠足に持って行ったよ、あるいは、子供の頃を思い出すねえ、などと続ける。そのたびに志郎は、このキャラメルが人々の遠い過去となっていることを知る。ところが、今でも祖母の不二子は、これを私の恋人と呼んでいる。いつもバッグの中に入れて持ち歩き、事あるごとに口に入れている。糖尿病になるから控えた方が良いと注意しようものなら、彼を馬鹿にしたように見て言い返す。脳みその栄養分は糖でしか取れないんだよ、甘いもので生きている可愛らしい代物が脳みそなんだよ、そんなことも知らずに二十一年も生きて来たなんて、ああ、私の孫と来たら、なんというイディオットな……云々……と続くのである。イディオットって何? などとはもう尋ねない。ぬけ作のことに決まってるじゃないか! と、以前、頭を小突かれた。それも、七十歳の老人とは思われない程の強い力で。私の脳みその皺は、このキャラメルのおかげで増えた、と彼女は言う。それでは、その顔の皺は何のおかげで増えたのか。 そう問いたいところだが、どのような仕打ちが待ち受けるのか解らないので口をつぐんでおく。キャラメルが恋人だなんて。それでは恋人とはなんなんですか、と尋ねたことがあった。そして、また、ああ、私の孫と来たらなんてイディオットなのだろう、と体を震わせるのであった。とりあえず、これでも舐めて頭を働かせなさい。そう言われて、口に放り込まれ続けたキャラメルは、いつのまにか、彼にとっても必需品になっている。ただし、恋人と思える程には、愛せない。人々の遠い過去になった味は、祖母にとっては現役だ。
山田詠美の描く文章は、まさに風味絶佳そのものだ。
上野千鶴子は『上野千鶴子が文学を社会学する (朝日文庫)』で『ベッドタイムアイズ』を描いた山田詠美を絶賛していた。
…(吉本ばななとくらべると、)山田の文体は驚くほど端正な日本語である。私は山田を最後の日本語巧者と呼びたいぐらいである。その文体の端正さにともなって、山田の描く内容もまた、見かけのスキャンダラスさにもかかわらず、おそろしく古典的な性愛の世界である。(略)山田の世界は純愛派のオヤジたちにもわかりやすい。山田は「性」が「愛」の代名詞になりえた「最後の二十世紀人」と言ってよいかもしれない。
このように、山田詠美の魅力というのは、文体の端正さに加え、あの新鮮かつ独特な肉体感覚表現にある。しかし、その女性作家の「性」描写の艶かしさを苦手とする人で、山田詠美の作品を読みたいと思ったら、この『風味絶佳』を手にするとよいだろう。
彼女の肉体を描く言葉には「性」を抜きにしても摩訶不思議な描写の欲望を感じる。
『風味絶佳』の中の一粒、「夕餉」の冒頭の部分を紹介する。元主婦が清掃作業員の彼に食べさせる料理に心血を注ぐ話だ。
私は、男に食べさせる。それしか出来ない。私の作るおいしい料理は、彼の血や肉になり、私に戻って来る。くり返していると、どんどん腕は上がる。彼の舌は、私の味に馴染んで、もう、満腹になればそれで良い、なんて言わせない。四時二十五分の退庁時刻とほぼ同時に電話が入り、こう尋ねられる。今晩のめし、何? それに合わせて彼は、おなかの具合を調整する。時には、運転手や他の作業員の人たちにつき合って酒を飲まなくてはならない。その場合、献立を変更して夕食を夜食に変える。でも、手を抜いたりなんかしない。彼の体は、私が作るんだ。私の料理から立ちのぼる湯気だけが彼を温める。それが私のデューティ。譲れない。もう、こうなったら意地だ。無理すんなよ、と彼は言う。私は、もう、聞く耳なんか持ちゃしない。料理欲は性欲以上に、私の愛の証になっている。いつだって、極上の御馳走を食べさせてやる。他人の生活の滓(かす)で苦労している彼の滓は、最高級のものから出来ているのだ。そう自らに言い聞かせて、今日も、私は台所(キッチン)に立つ。さあ、気合を入れるために、まず、ヱビスビールをひと缶飲もう。喉から食道、そして胃袋に向かってエナジーが流れて行くのが解る。ひと缶が空になる頃には、体じゅうにやる気が染み渡る。よし! と呟き、缶を水ですすいでつぶす。専用のガーベッジ缶に、それを投げ入れる。こうしなきゃ駄目なんだよ。
まるで料理小説と勘違いしてしまうことだろう。だが、料理を味わうこともできない作家に言葉を味わうこと、人間を味わうことができるであろうか。
山田詠美は人間の醸し出す風味を咀嚼し、それを彼女だけの言葉で小説世界に埋め込んだのだ。
『スイートリトルライズ』を読了して
『スイートリトルライズ』は2004年に単行本として幻冬社から出版された江國香織による恋愛小説である。テディベア作家の瑠璃子と二歳年下の外資系の会社に勤務する聡の夫婦二人は、日常に不満はないが、「禁じられた遊び」のミシェールとポーレットのように、寄り添って暮らしていきたい為に嘘をついていく。一緒に眠って、一緒に起きる。どこかに出かけてもまた一緒に帰る家。そこには、甘く小さな嘘があるのだ。
家は夫婦の関係、夫婦を象徴しているのではないかと考えた。事実、物語の最後はこう締めくくられている。「部屋のなかはあかるく、テーブルの上にはつくりかけのベアの胴体が、まるで日なたぼっこでもしているみたいにころがっている。聡と瑠璃子の、愛の家のなかで。」
「聡は窓なの」と瑠璃子は言う。
脱衣所は狭く、ひんやりしている。洗濯機をまわしながら、聡のことを考えた。いまごろ会社で働いているのであろう聡のことを。なつかしい気持ちがした。会いたい、といってもよかった。瑠璃子にとって、聡の存在の大きさー単純に言語の意味および構造として、それは小ささと言い換えてもおなじことだと瑠璃子は思い、苦笑するのだったがーはかわらない。出会ってからの数年も、結婚してからの数年も、聡はずっとおなじだった。まじめで、瑠璃子の知らないことをよく知っていて、瑠璃子を外界から護ってくれている。窓みたいに。一方で聡はひどく子供じみていて、日々瑠璃子を必要としている。窓が部屋を必要とするみたいに。
物語のなかでは、窓に映る人物の姿が印象に残る。聡は「電車の扉の窓の闇に。色白で童顔の、自分の顔」が映っているのを見る。一方、聡の浮気相手のしほの表情は、ガラス窓のなかで聡に興味をひかれて動く。そして、地下鉄の窓に映った二人の姿は、指をからませて手をつないでいるのに、すくいがたくよそよそしく、おそろしく寂しかったのだ。まもなく、聡は窓のないラブホテルで、瑠璃子は風通しよい部屋でそれぞれ浮気をする。
また、聡が瑠璃子を必要とするみたいに、窓が部屋を必要とするみたいに、瑠璃子は自分のことを部屋だと比喩する。「聡は毎朝鏡の前で歯ぐきのチェックをして会社にでかけ、仕事をして、毎日ここに帰ってくる。(略)実際、瑠璃子は部屋の造作には心をくだいた。イギリス製の布であつらえたカーテンと、ながいことかかってあつめたアンティークのベアたち。このうちは自分そのものだ」と瑠璃子は感じる。
二人は「昼間は外にでて、仕事をしたり、いろんなことを考えて、浮気したりしていても、夜になると家に帰る」のだ。妙だなぁと思っていても。瑠璃子は「私、窓って大好き」と言い、聡は瑠璃子とは関係のないことだと言いつつも「部屋はほんとうに落ち着く」と思う。
「聡」
きいて、と言って目の前にすわった瑠璃子をみて、聡はいやな予感がした。妻がこの表情で正面にすわるときは要注意なのだ。わけのわからないことを言いだす。私を貪欲だと思うか、とか、このうちに恋が必要なのかどうかもわからない、とか。
「大切なのは、日々を一緒に生きるっていうことだと思うの」
聡は、うん、と返事をする。
「一緒に眠って一緒に起きて、どこかででかけてもまたおなじ場所に帰るっていうこと」
「うん」
「大切なのはそのことだと思うの」
「うん」
「覚えててね」
聡は言葉につまった。何を憶えておけばいいのかわからなかったからだ。それでも、仕方がないので「うん」と言った。
「よかった」
瑠璃子はにっこりとして立ち上がり、コーヒーのおかわりをついでくれた。
このうちには恋は必要なかったが、秘密を隠すために「嘘」が必要になった。瑠璃子は浮気相手の春夫に言ったのだった。
「(略)わたしはあなたに絶対に嘘はつけない。知っているでしょう? あなたも私に嘘をついてくれないもの」
そしてね、と、続けた。春夫は部屋のなかに向き、瑠璃子をじっと見つめている。これから自分が言おうとしていることの、あまりの淋しさに、瑠璃子はたじろいだ。まるで、言葉が胸のなかで凍りついたみたいだった。
「そして、何?」
瑠璃子は春夫をにらみつける。春夫はいつも容赦がない。
「そしてね」
瑠璃子はようやく口をひらく。ぞっとするほど淋しい声になった。
「なぜ嘘をつけないか知ってる? 人は守りたいものに嘘をつくの。あるいは守ろうとするものに」
瑠璃子は、自分の言葉が自分の心臓を、うすっぺらな紙のように簡単にひき裂いたのを感じた。
夫婦の関係を維持するためには、恋は必要ないが、嘘は必要になるのだ。嘘をつくことなく、愛しているという瑠璃子に春夫はぽつりと言う。「それはとても、スイートじゃないか」嘘のない関係はとてもスイートなのだ。